俺以外みんなバカ批判『英語にも主語はなかった』読書感想文

そんな訳で、前回、前々回のエントリでは
『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』金谷武洋(2004 講談社選書メチエ
英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ
という本の1ページだけを読んで頭に血が上って批判を書いたのだが、連休でつい全部読んでしまった。1ページだけ読んで批判するのはいくらそのページの内容がひどくてもあんまりなので他のところも批判できるから読めてよかったとしよう。

いつも言うように専門的な批判はできない。以下に書くことは言語学の知識とはちょっとしか関係がない。勿論いい加減なことを書いてもまけといてくれというのではなく、不正確な点や誤りなどがあればご指摘ご批判は歓迎します。

本書の狙いは、よく喧伝される「日本語特殊言語論」への反論である。また、同時に「英語標準言語主義」に対して警鐘を鳴らしたいと思う。(p.8)

結構な志である。楽しみにして読み進めたのだが、読んでも読んでも「日本語特殊言語論」への反論が出てこない。反論どころか『よく喧伝される「日本語特殊言語論」』が例示すらされない。参考文献として本文中にも言及のある『世界の言語と日本語』角田太作(1991 くろしお出版)にあるように、日本語はこういう点で世界中の多くの言語にある特徴を備えている、と例証してくれれば「なるほど日本語は特殊ではない」とわかるのだが、全部読んでも一体何がよく喧伝されているのか、何に反論しているのかすら全然わからなかった。書いてないものはわかりようがない。

「英語標準言語主義」については、上述の角田も引いて『Doの文法化により、駄目押しの「する言語化」がなされた。(p.184)』というようなことを言っている。そしてその「する言語」性において他のヨーロッパ語との差を広げたのだから『「今日の英語を標準にして言語的ヨーロッパを考えることは大きな誤り」(泉井久之助)』だという(p.176)。(なお角田は助動詞Doの用法が世界の言語の中でも珍しいといっているだけであって「する言語化」などとは言っていない。)Doの用法が珍しいから英語が標準的ではないというだけでは単なる角田の受け売りだから、金谷はそれを『駄目押しの「する言語化」』だといってオリジナリティを出しているように見える。しかし、Doの文法化についての説明には無理がある。

古英語や中英語では、Said he? 「彼は言ったか?」のように主語と動詞の位置を逆にするだけで疑問文が得られたが、その後一般動詞では助動詞Doがいるようになった。喩えていえば「言ったか?」の代わりに義務的に「言ったりしたか?」と行為度を高めて聞くようなものである。(p.177)

言語学でいう文法化とは、ふつう、「内容語」つまり意味をもったことばの意味が限りなく弱くなって「機能語」に、文法的な機能をはたす役割へ変質していくことをいう。Doが金谷のいうとおりの歴史的な経緯をたどったのであれば、確かに文法化している。つまり文法化したことに伴ってdoの意味は省みられなくなっていったのである。わざわざ冗長に「言ったりしたか?」になったのだ、行為度を高めたのだというのは無理があり文法化の概念に合わない。Doが義務化したことを行為度を高めるといいたいのであれば、文法化という概念に頼るべきではない。まして一般向けの本で文法化なんて一般的ではない言葉を自説に合う形でもっともらしく文中に組み込んでしまってはいけない。
いずれにしても角田の例に独自の解釈を付け加えただけでは『「英語標準言語主義」に対して警鐘を鳴らしたい』という目的に適っているとはいえないだろう。これも肩透かしであった。

さて、以下は全体を通して見られる予断と偏見の例である。

世界中どこに行ってもビッグ・マックは同じ材料、味、大きさ、色、重さ、厚さなのだ。店員のサービスまでマニュアルがあって話し方から何からすべて決まっている。(p.140)

規格があるからといって世界中で同じ材料のビッグ・マックが提供されていたら、マクドナルドはムスリム圏はもとよりインド、イスラエルアメリカ国内でもベジタリアンの多い州などでは生き残ることはできなかったのではないか。規格がある、ないしマニュアルがあることと、実際に提供しているサービスとは別物である。

こちらのどこまで知ってる?世界のマクドナルド事情という記事では、牛を食べない現地の習慣を尊重してチキンでビッグ・マックに代わるオリジナルメニューを開発したインドの事情が紹介されている。こちらではハンバーガーと一緒にビールが出てくるドイツやら、ケチャップの代わりにアボカドペーストがついているチリと並んで日本のコロッケバーガーなども紹介されている。マクドナルドのグローバリゼーションを批判するのは結構だが、批判的に言及するなら実態に即した観察をしなくてはならない。インドではビーフを使わないビッグ・マックを提供しているという事実を無視して『世界中どこに行ってもビッグ・マックは同じ材料』などと言ってしまっては、批判の説得力は失われてしまう。

カナダに住んで英語の上手な日本人の子供は、下手な子供より(口元の引き締まりが歯茎にいい影響を与えるので)虫歯が少ない、という冗談のような話も歯医者さんから聞いた。真面目な人が真面目な顔をして言うのだから、どうやら本当らしい。(pp.108-9)

真面目な人が真面目な顔して嘘をいうのに会ったことがないのだろうか。悪徳商法に騙されたりしないのか他人事ながら心配になる。それはともかく、いい加減なこというな。

長崎の12歳の少年とマルク・レピンの共通点はビデオゲームだ。(p.123)

長崎の少年というのは4歳の子を殺したという話で、マルク・レピンというのは筆者の勤めるモントリオール大学で14人の虐殺事件を起こしたという人。それはともかく、いい加減なこというな。

私は、お百姓さんたちが、典型的に「キレない」人たちだと思う。(p.131)

思うのは勝手だけれども、この人は思うばかりで実証的に示すということがない。データを扱ったことはないのか?

三上章を「日本文法の父」とまで呼んだ久野が三上文法の根幹を批判し、三上擁護に立つ私を黙殺する理由があれば教えて欲しい。(p.142)

取り上げるに値しないからでは?この人は三上についても黙殺されてきたと主張して、言語学者に反論されると『私にとっての「正当な評価」とは、橋本学校文法を三上文法で置き換えることをおいてない。(p.221)』と後出しじゃんけんをする。それなら最初からそう主張すべきである。そして金谷がどういおうとも、三上が日本語学界や言語学界で高く評価されている事実に変わりはない。

私は分野を問わずこの「私は黙殺されている」としきりに主張するやり方を「俺以外みんなバカメソッド」と呼んでいる。何を勘違いしたら、そこまで他人のリソースを費消する権利があると思えるのだろう。残念ながらこのメソッドはしばしばそれしか聞いていない人には有効に働く。その分野の先人たちがみんなバカで、その人が本当に大事な主張をしているのに黙殺するようなバカばっかりで学会なんかはできているという馬鹿げた主張を却下するために、そんなアホなということは言い続けなければならない。

というような大層なことを考えたのではなく、読んでしまった以上は元を取らねばと思ったのだが、さっさと忘れるという手もあっただろうか。

参考文献
『世界の言語と日本語』角田太作(1991 くろしお出版