クレオールで何が悪い(前回の補足)

前回の記事でもう一点、言及するのを忘れていた。

クレオールなどと言うといかにも「合いの子」のイメージで、世の中の英語話者はさぞやいい感じがしないだろうが、ここで考察しているのは言語事実であるから仕方がない。(金谷武洋『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』p.170)

まず「合いの子」という言葉が蔑称として使われてきた経緯があり、現に金谷氏は「いかにも「合いの子」のイメージで(中略)いい感じがしない」とその差別意識をあらわにしている。さらに自分の偏見を「英語話者はさぞやいい感じがしないだろう」と勝手に英語話者に一般化しているが、私が英語話者ならそんな偏見を持っているだろうと決め付けられるほうがよっぽどいい感じがしない。差別用語とされるものを配慮もなく使い、現に差別感情を露呈させ、第三者の認識を勝手に決め付ける。ここにはまず「合いの子」ということばで本人の意思と無関係にカテゴライズされてしまう人間への差別がある。

そして世界に何千万といる、現にクレオールをしゃべっている人への差別意識はとても言語学者の書くものとは思えない。「日本語話者などと言うとさぞやいい感じがしないだろう」と言われて日本語話者に対する侮辱だとは思わないのだろうか。

さらに、そういうピジンクレオール言語に対する「普通の言語」の根拠のない優越感こそは長年にわたってピジンクレオールの話者や研究者が闘って来た偏見だった。話者自身によるネガティブイメージや言語政策の問題など、現在でも解決されていない問題は少なくないが、言語学者が先に立って偏見をひろめてどうするのか。ここには「合いの子」と呼ばれる人への偏見、クレオール話者への偏見、そしてクレオール言語に対する無知が揃っている。

クレオールで何が悪い。そういう訳で、私はこの本のまだ1ページしか読んでいないのだが頭に血が上って2つもエントリを書いてしまい、この後読み続けることができるのかどうか不安でならない。