阪大雇い止め訴訟の控訴審判決について

www.asahi.com

昨日この記事を見て、今日他の大学に非常勤講師で出たところ、非常勤講師組合のちらしがポストに入っていた。判決前から入っていたもので、内容はまだ判決前である。

以下は、その組合発行の「非常勤の声」という6ページの小冊子から阪大の部分の引用である。

「証人尋問で阪大外国語学部の専任教員の方はシラバス記入や授業の実施に関して詳細な証言をされ、専任同様に非常勤講師も阪大の指揮監督下で授業を行っている勤務実態が明らかになりました。阪大側が否定した、学生からの質問対応なども日常的に行っていることも証言されました。」(2026年5月10日発行 関西圏大学非常勤講師組合「非常勤の声」6ページ)

とのことである。

 

阪大側が否定した、学生からの質問対応」ですってよ。

どこの世界に質問対応しない非常勤講師がいるわけ?だったらなんでシラバスに質問対応はどうするのか書かせる?阪大が否定してこれを専任の先生が「いややってるし!」と証言したから覆ったのか。阪大は何を根拠に「阪大の指揮監督下で授業を行って」いないとかいうのか知らないが、授業以外にもたとえば学生に英語でエッセイを5枚書かせて担当80人なら計400枚を読んで各クラス1人ずつコンテストに選出しろとか、こういうことも「阪大の指揮監督下」でもなく非常勤講師が勝手にやってたとでもいうのだろうか。当たり前だが専任講師から非常勤講師にも依頼があって行われていることである。

なお、今年の非常勤講師の契約書には「最長でも5年までだからな、それ以上とか絶対ないから!」みたいなことが強調されている。阪大の外国語学部なんて非常勤講師がいなけりゃ成り立たないのだが専任には5年ごとに「次」を探させると。非常勤は使い捨て、専任は定額働かせ放題とでも思っているのかと疑わざるを得ない。5年で生活に困ることもなくすっぱりやめて、学生の質問に答えるとか学部のコンテストに協力するとか余計なことは一切しない非常勤講師がいるのかどうか知らないが、自分等の子供をこういう条件で働かせたいと思うのだろうか。

ともあれ今の時代にもまだ組合の存在意義はあった。逆転勝訴を勝ち取った関西圏大学非常勤講師組合の粘り強い闘いに敬意を表したい。

 

 

 

 

 

オリックスファンがアベレンをみると

ただただうらやましい。そこには希望がある。

 

3連覇にもそこそこ貢献した、走攻守揃った、どこでも守れるユーティリティーといえば、オリックスでいえば中川圭太か。そして、長身本格派イケメンの中継ぎ右腕といえばこれは山崎颯一郎、そんな圭太と颯一郎に匹敵するかもしれない、元広島の安部友裕さんと中田廉さんが、今人気沸騰中のアベレン、広島ローカルのテレビから全国で人気爆発中の、もしこれが株だったら去年の時点でNISAを崩してでも買っておくべきだった、大人気コンビである。

 

お二人はそれぞれ単独でも活躍されているが、コンビでの知名度が高くなっていて、今これを書いている2025年12月29日現在では、昨日の時点で高橋慶彦You Tubeチャンネルに、2人でゲストに呼ばれていたのに先輩である安部さんのほうが最後まで姿を表さず、その事情は最後に説明されたのだが、レンさん一人でレジェンド高橋慶彦との対談10回を乗り切ったという、見た人がその健気さに涙しそうになるぐらいの爽やかな好青年、本人たちはおっさんと自称しているけど、30代半ばなのに20代にしか見えない、激推し物件なのである。広島ローカル一枠で放送されるその情報番組の一枠はYou Tubeで見られる。二人がゲストとともに訪問したり体験したりする冒険の数々は、広島だけではなく長崎やら福井、山口あたりでも繰り広げられて、絶対行ってみる!と思わせる。

 

ほんま、うらやましい、今名前を挙げたオリックスの中川圭太は、クールでかっこよくて今年一億円プレーヤーになったオリックスの中心選手であり、山崎颯一郎はイケメン揃いのオリックスの中でも他の追随を許さない足の長さで、アベレンカープの3連覇に貢献したなら、圭太と颯一郎も紛れもなくオリックス3連覇の重要な立役者の一人であるのだが、圭太は日本一ヒロイン(ヒーローインタビュー)がおもんない男と言われているし、颯一郎はまあ、しゃべらなかったら格好いいと言われている。野球や性格やいろんなことが素晴らしいけどしゃべりは他の人に頼んだほうがよい人々である。それはそういう個性だからそれでいい。ただアベレンを見て羨ましくなってしまっただけなのだ。

 

ベレンの二人は勿論プロ野球で優勝するチームの優勝に貢献しているのだから一般に野球の世界で勝ち抜いた人に決まっているのだけれど、その中でさらにレジェンドというほどではなく、常々自分たちでそう言っている。どんなに一握りの大成功した人々の一人だとしても、最終的に戦力外になって引退したというところでは、部外者にはわからないが大きな挫折感があったであろうことは想像に難くない。ただ、この二人はそれを弱みではなく大きな強みとして新たな道を切り拓いた。勝ち抜いて、勝ち抜き過ぎて雲の上に行ってしまった人ではなく、行けるとこまで高くジャンプしたけどそのあとは普通の世界に戻ってきた人として、私たちに話しかけてきたのである。

 

それは時に専門的な熱い話にもなるし、くだらないネタにもなればちょっといい話にもなる。(年よりもずっと)若くて、溌剌として、時にダルそうに、時に明るく面白く、そこには各界の有名人が先方からのオファーでやってきたり、今まで誰もやってこなかったことを、雲の上からではなく等身大の、敢えて言うなら挫折も知っている凡人の一人として、もしかしてここには希望があるではないかと見せてくれたことが、今まで引退したプロ野球選手たちの栄光の記録とは一味違う、臨場感をもって、カープファンだけではなくオリックスファンや、なんのファンでもなかった人々を夢中にさせたのである。

 

というわけで、今その(安部さんにすっぽかされた)慶彦チャンネルを見て、これはもう、この人たち、アベレンの二人は今はこうでも、ローカルでまったりやっていても、本人たちの意向を超えて雲の上に行ってしまうかもしれないと思った。だから今この、彼らがまだ中途半端に出てきている時点で言っておきたい。世の中の、一つの道が閉じられて行き場を失ったり、大きな挫折を味わったり、どうやって生きようか途方に暮れる人々に対して、あなた達はこんなのありなんか!と、言葉とアクションとかそういうものをこえて希望を見せてくれている。だから人はアベレンに夢中になる。単におもろい奴らやからだけではない。おもろいのは確かに一つの、圭太や颯一郎には見られない(繰り返すがそれは何も悪いことではなく、世の中でおもろい人なんてごくわずかなんだから人前でぺらぺらなんでもしゃべれるという点は)この人たちの天賦の才であろう。初めて踏み出した時はきっと不安だったと思うけど、踏み出してくれてありがとう。そして今日はレンさんが慶彦チャンネルで「今後広島で生きる」というようなことを言われていた。それも素晴らしいと思う。みんなそれぞれご縁のあった場所がある。

 

今、今年2025年の時点でお礼を伝えたい。アベレンをやってくれてありがとう。推しに応援されて推しを応援する。こんな楽しいことはめったにないと思う。

Me?誰?

AIと会話をしたことがない。一方的に質問、もしくは命令はする。「〜とは何か」「〜を英訳せよ」など。質問に対する答えに反応する場合も、再質問、もしくは新たな命令形式である。挨拶などしようとは一度も考えたことがない。プログラムが信号を送ってくるという認識のみである。AIの「態度」などはない。信号の赤がそっけなくて青がやさしいとか考えないのと同様である。

 

しかしそういうのはどうやら少数派らしい。相手がAIであれ「ありがとう」ぐらい言うのが常識であるという人もいた。ということは、電子音声の案内にもいちいち礼を言うのだろうか。ともあれ、しかし「相手」は勝手に「話しかけて」くる。

 

先日必要があって英語でAIに質問したところ、もしこんなことがして欲しかったら"Tell me."だか”Let me know."だか、つまり「その時は(私に)言ってね」的なことを「言わ」れて、強烈な違和感をおぼえた。

Me? 誰や、君は。私は信号を入力し、返ってきた信号に対してまた信号を返す。そこに相手は存在しない。電卓があるだけである。

 

今のところ私とAIの「つきあい」はそんな感じである。ただ、もしかしてたとえば私がAIに「電卓」とか名前をつけたら「電卓はどう思う?」とか言いたくなるかもしれない。しかし今ただの電卓である電卓との間にコミュニケーションは成り立っていない。

旅行先で髪を切る話

ギリシャの街角では適当に入った美容院で適当に切った。ギリシャ語はわからないが美容院に入っているのだから髪を切りたいに決まっている。その心はオードリー・ヘップバーンである。適当に切ってもらい、満足していると美容師も満足そうな顔で、タオルで髪が落ちたテーブルを拭き、その同じタオルで私の顔も拭いた。まあまあ綺麗になった。

 

ベトナムでは路上の散髪屋だった。涼しくて快適で、道に落ちた髪は川に流れて行った。

 

パプア・ニューギニアでは、カーリーヘアの美容師が難しい顔をして、私のようなストレートな髪は切れないという。現地の人はみんなカーリーだから、そんなまっすぐな髪は切れないのだという。しかし美容師はシンガポールで美容師の資格を取ったというので、ならばアジア人のまっすぐな髪にも慣れているのではないか。ならいいよ、というとでも特別に切ってあげるという。そして特別に切ってくれて、貼ってある値段の10倍ぐらいふっかけてきた。いや話が違うではないかと言ってもそんなことはないと言い張る。一応切るには切ってくれたので少し交渉しただけでだいぶ相手の言い値に近い額を払った。勝ち誇った顔をされたが面白かったのでよし。

 

オーストラリアでは、早口の美容師で何を言っているのかさっぱりわからなくて適当にオーケイ、イエースとか答えていたらうっかりメロンの香りの整髪剤を買ってしまった。茶髪にしてみたけど全く似合わなかったのはたぶん美容師のせいだと思う。

 

その後、海外に行く金がなくなったせいで、10年パスポートは一度も使用することなく切れてしまい、今また2回目の10年が切れかかっている。しかし今度は小金を貯めたので、もしかしたらまたどこかで髪を切れるかもしれない。

 

髪を切るのはごく日常の営みであり、旅先でのこれをやるとあっという間に旅行気分は台無し、ではなくて旅行の中で旅先の日常を味わうことができる。おすすめである。

 

 

 

「セルフ胴元ボックス」を設置した結果

最初に言っておくが、おかげでギャンブルに費やしたはずのお金が溜まったと言う話ではない。また、効果がなかったという話でもない。

「セルフ胴元ボックス」は谷岡一郎「ツキの法則」PHP新書に出てくる「<競馬はしたいが損はしたくない>という人に筆者が勧める一つの方法」(同書 137ページ)である。

やり方は最初に一〇万円程度入った箱を用意し、買うつもりの馬券をその箱の中に入れ、当たれば配当金をその箱から取り出す、というだけのことである。(中略)通常の買い方をする限り、投資額以上の回収はまず見込めないため、箱の中は現金が増えていく結果となる。一年の終わりに一〇万円差し引いて、残りの現金はもし馬券を本当に買っておれば存在しないはずの現金である。どう使おうと自由である。(137ページ)

十万円のところは、個人の懐事情に応じて調整すればよいだろう。著者のいうように、普通に競馬をやっていたら長い目で見たらまず負けるので、一年単位で突っ込んだはずの金額をためておけば、よほど大穴を当て損ねでもしない限り、年末には十分なお小遣いが貯まっていると思われる。

私はかつて、競馬を含むさまざまなギャンブルに耽溺していて、有難いことにそれは他のものに心を奪われることによって過去のことになったのだが、コロナ期にオンラインで競馬ができることに気づいて以降(つまりはまっていたのはそうなる前であった)年に2、3回ぐらい有馬記念宝塚記念ぐらいだけ買って遊んだりしていた。お小遣いの範囲の飲みにいくより安い散財である。

そんな訳で競馬からはほぼ足を洗ったのだが、去年の有馬記念は外してふとこのセルフ胴元ボックスをやってみようと思い立った。とはいえそんな箱に突っ込んでおけるほどのお小遣いはないので最初に入れる十万円は省略してゼロから始めた。それだって最初に少し負ければ箱の中に幾許かのお金が残る。

1回目、種銭として数千円を用意して、素人のギャンブルには十分な資金だと思うのだが、当たらずに箱の中に五千円が入れられた。この調子で月に数千円でも負け続ければ、年末には数万円になり、お正月の費用にもなるのではないかと思われた。

しかし、2回目になってこの自分のお金を右の財布から左の財布に回すだけの行為に対して「これって最初からやらなければよいだけのことではないか」と気づいてしまった。

いや、そんなことは最初からわかっているのである。ギャンブルの必勝法は一つ、やらないことである。箱の中にお金を出したり入れたりする行為は何かの代償ではあるのだが、「あー、実際に買わなくて助かった!」という思いよりも、私にとってはもともと自分のお金であるところの金を「もしもこうしていればなくなった」と想定してもういっぺんその想定をひっくり返して「これは競馬で負けてたはずのお金であるが今手元にあるではないか、欲しいものをなんでも買えるではないか!」と実際には全くそうなっていはいない幻想をなぞることのあほらしさのほうがずっと大きくなってしまうのである。

私はセルフ胴元ボックスをやめた。競馬はほぼやめた。まあ、有馬記念宝塚記念だけは、ご祝儀程度に残しておいてやってもよいとは思っている。

 

 

NHKで体罰が肯定されていた時代の記憶

中村メイコさんの訃報に接して、三波伸介さんと共演していたNHKの「お笑いオンステージ」を懐かしく思い出した世代である。その中に減点パパという人気コーナーがあった。有名人の子供が出演し、その子供たちの描写に合わせて三波さんが似顔絵を描き、パパが登場、最後には子供が作文を読んでパパが泣く、みたいな、当時大人気といえるコーナーだった。最後の方では少し時代が進んで「減点ファミリー」になった。以下はその「減点ファミリー」なって、時代が少しは進んでからの話だが、エンディングテーマの歌詞に

「ゲンコツもらうとよくわかる、その後なぜだかあったかいよ〜」

という歌詞があった。70年代後半ぐらいの話。ゲンコツ全肯定「そのあとあったかい」とか、殴られる子供にすればふざけんなという話なのだが、当時は全く問題視されることはなかった。

今、それを蒸し返して問題にしようというのではない。今五十代の自分が子供の頃はまだそんな時代であり、それを当然視する社会の中で育ってきた我々は、まだ社会の中枢にいるといってよい。今なら大問題、今ならDV、差別、パワハラ等々であることを私たちはしばしば喜んで懐かしがって、たとえば私自身でも昔のプロ野球選手のめちゃくちゃな暴力ネタなどを喜んで見ている。その反面で現在のプロ野球球団での暴力事件などは許し難いこととして批判している。

今絶対ダメなことは当時だってダメだったんだけど私らにはそれがわかっていなかった。だけど時代が変わって今はもう許されない。いい時代になったし、それが当然である。一方で体罰が当たり前のように許されてきた時代は、ついそこで、そこで育ってきた私らはまだ現役で世代的に大きなパワーを持っている。もしかしたら、いまだにわからない側にいる、いたかもしれない。

ゲンコツがあったかいよ〜という歌詞をNHKがこどもに歌わせていた。若い人にしてみたら大昔のことのように思うかもしれないけれど、つい昨日のように覚えていることを記録しておきたい。

 

 

 

 

上野千鶴子氏の法律婚について自称フェミニストが考えたこと

一言でいえば「勝手にせい」ということである。

そして、その(私の)考えはまさに上野千鶴子小倉千加子著「ザ・フェミニズム」(2002年、筑摩書房)にいうフェミニズムのめざすところ、「自己定義権の獲得」に沿ったものであろう。私は二十年以上、実際のところは四十年近く前から彼女らの影響下にあって、今もあり続けている一人であろうし、勝手にフェミニストを名乗っている。この人たちのいう「解放」を目指している一人である。

「何が解放か」というのは、当事者が自己定義するしかないということ。これが解放だと人に押しつけられるのは、もはや解放ではない。だから答は人によって違う。自己決定しかない。(上野・小倉著「ザ・フェミニズム p.240」)

同じ本の次のページで上野はこうも言っている

いまや、システム総とっかえというのは、変革の思想としては成り立たなくなっている。システムの空洞化や、現場における実践的な組み替えなどの蓄積によってしか、変革は考えられなくなっています。(同書 p.241)

上野千鶴子法律婚するとは法律婚のシステムも空洞化したものである。かつて「結婚しているフェミニストが嫌い」と言ったのは小倉千加子のほうであるが、上野はたとえば夫婦別姓については

別姓だろうがなんだろうが、要するに異性愛カップルに法的な特権と経済的な保護を与える、という制度そのものがナンセンスやからやめなはれ、と。(同書92ページ)

と言っていた。ここから法律婚を批判していると読みとるのは自然な考えであろう。しかし、彼女自身の言葉に従うのであれば、システム総とっかえが現時点で効かない以上(伝え聞くところによれば介護のためなのか理由はわからないが)もはや法律婚というシステムが彼女の自立(たとえば「性の自由、身体の自由は基本のキ」(同書95ページ)というような)を妨げるものではなくなったという事態、性的な自由を行使することもなくなる年齢、に及んで現実的な選択肢を採ったのかもしれない。しらんけど。私は、この件についての彼女に対する批判は、SNSなどで見たが、その後の本人による反論は読んでいない。私がどう思ったかを言っているだけで、上野がどう考えているかは実際、知らない。ただ、たとえば

にあるような「彼女を信じて結婚しない人生を選択した人たち」というような意見に対して、一体どこにそんな釈明を求めているような人がいるのかといいたいだけである。上野は一貫して自己決定を求め、本人も自己決定している。わたしらが彼女から受け取ったメッセージは「勝手にせい」であってわたしらの答えは「ほな、勝手にさしてもらうわ」である。そして、そのとおり、ずっと勝手にしてきたしこれからも勝手にしていく。それがフェミニストとしてどうか、なんて勝手な物差しで測るなというのが上野の「教え」である。彼女を教祖のように言う人、そしてフェミニストたちを「信者」のようにいう人の雑な例えにあえてのるならば。

 

釈明など必要ない。上野が他者の人生で、法律的に結婚するかどうかを「上野の考え方に依存して」決めることを推奨しているならば、私は上野を見限るだろう。念の為、彼女はそのようなことはしていないと思っている現在においても、別に「信者」ではないので、たとえば彼女が年収300万を「貧乏」と称したのにはブチ切れたこともあるし、他の毀誉褒貶についても是々非々の立場で毀誉褒貶はその人自身のもの、というのは私自身のかねての主張である。

 

だから私は上野を擁護したい訳でもなく最近の動向も追っていない。影響を受けたというのはつまり、上野や小倉が自身の考えを言語化してくれたところがあり、その方向性に共鳴した、ぐらいのところである。勿論、結婚するかどうかをこの人ら(どちらかといえば小倉の影響が大きい)に従って決めたりはしない。ただ、唐沢氏のように、自身ではなく架空の釈明を求める人を想定してそれに対する釈明を求めている人々に、いや、釈明を求めるなら自分が求めたら、と言いたいだけである。なんでそんないるのかいないのかもわからない人を勝手に代弁するのか。私はそこに「自身の考えもなくただ扇動されて入れ込んで梯子を外されて怒っている人」という蔑視をみる。たとえ、ほんとにそんな人がいたとしても、大きなお世話である。