上野千鶴子氏の法律婚について自称フェミニストが考えたこと

一言でいえば「勝手にせい」ということである。

そして、その(私の)考えはまさに上野千鶴子小倉千加子著「ザ・フェミニズム」(2002年、筑摩書房)にいうフェミニズムのめざすところ、「自己定義権の獲得」に沿ったものであろう。私は二十年以上、実際のところは四十年近く前から彼女らの影響下にあって、今もあり続けている一人であろうし、勝手にフェミニストを名乗っている。この人たちのいう「解放」を目指している一人である。

「何が解放か」というのは、当事者が自己定義するしかないということ。これが解放だと人に押しつけられるのは、もはや解放ではない。だから答は人によって違う。自己決定しかない。(上野・小倉著「ザ・フェミニズム p.240」)

同じ本の次のページで上野はこうも言っている

いまや、システム総とっかえというのは、変革の思想としては成り立たなくなっている。システムの空洞化や、現場における実践的な組み替えなどの蓄積によってしか、変革は考えられなくなっています。(同書 p.241)

上野千鶴子法律婚するとは法律婚のシステムも空洞化したものである。かつて「結婚しているフェミニストが嫌い」と言ったのは小倉千加子のほうであるが、上野はたとえば夫婦別姓については

別姓だろうがなんだろうが、要するに異性愛カップルに法的な特権と経済的な保護を与える、という制度そのものがナンセンスやからやめなはれ、と。(同書92ページ)

と言っていた。ここから法律婚を批判していると読みとるのは自然な考えであろう。しかし、彼女自身の言葉に従うのであれば、システム総とっかえが現時点で効かない以上(伝え聞くところによれば介護のためなのか理由はわからないが)もはや法律婚というシステムが彼女の自立(たとえば「性の自由、身体の自由は基本のキ」(同書95ページ)というような)を妨げるものではなくなったという事態、性的な自由を行使することもなくなる年齢、に及んで現実的な選択肢を採ったのかもしれない。しらんけど。私は、この件についての彼女に対する批判は、SNSなどで見たが、その後の本人による反論は読んでいない。私がどう思ったかを言っているだけで、上野がどう考えているかは実際、知らない。ただ、たとえば

にあるような「彼女を信じて結婚しない人生を選択した人たち」というような意見に対して、一体どこにそんな釈明を求めているような人がいるのかといいたいだけである。上野は一貫して自己決定を求め、本人も自己決定している。わたしらが彼女から受け取ったメッセージは「勝手にせい」であってわたしらの答えは「ほな、勝手にさしてもらうわ」である。そして、そのとおり、ずっと勝手にしてきたしこれからも勝手にしていく。それがフェミニストとしてどうか、なんて勝手な物差しで測るなというのが上野の「教え」である。彼女を教祖のように言う人、そしてフェミニストたちを「信者」のようにいう人の雑な例えにあえてのるならば。

 

釈明など必要ない。上野が他者の人生で、法律的に結婚するかどうかを「上野の考え方に依存して」決めることを推奨しているならば、私は上野を見限るだろう。念の為、彼女はそのようなことはしていないと思っている現在においても、別に「信者」ではないので、たとえば彼女が年収300万を「貧乏」と称したのにはブチ切れたこともあるし、他の毀誉褒貶についても是々非々の立場で毀誉褒貶はその人自身のもの、というのは私自身のかねての主張である。

 

だから私は上野を擁護したい訳でもなく最近の動向も追っていない。影響を受けたというのはつまり、上野や小倉が自身の考えを言語化してくれたところがあり、その方向性に共鳴した、ぐらいのところである。勿論、結婚するかどうかをこの人ら(どちらかといえば小倉の影響が大きい)に従って決めたりはしない。ただ、唐沢氏のように、自身ではなく架空の釈明を求める人を想定してそれに対する釈明を求めている人々に、いや、釈明を求めるなら自分が求めたら、と言いたいだけである。なんでそんないるのかいないのかもわからない人を勝手に代弁するのか。私はそこに「自身の考えもなくただ扇動されて入れ込んで梯子を外されて怒っている人」という蔑視をみる。たとえ、ほんとにそんな人がいたとしても、大きなお世話である。