アナウンサーに論語を読んでもらう鳥栖市のねらいとは

新教科「日本語」授業に保護者も興味津々 佐賀県鳥栖市

佐賀県鳥栖(とす)市が新教科「日本語」を始めて授業参観が盛況だったよ、というニュースである。これは日本語も世界の言語の一つとして位置づけて、ふだん当たり前のように使っている日本語にはこんな面白い仕組みがあるんだよとか、日本語と言ってもたくさんの方言があるよねというように、従来の国語教育では言及されることの少なかった日本語の側面を見てみよう、あるいは外国語としての日本語を日本語話者も勉強してみようとか、そういう話では全くなかった。

正しい朗読を通して日本語の美しさなどを学んでもらうため、NHK佐賀放送局のアナウンサーとキャスターの2人を講師として招いた。

授業内容は論語

正しい朗読?アナウンサーの朗読は正しくて普通の人の朗読は正しくないのか?とそこら辺でとりあえずひっかかる訳だが、それにしても珍妙な気がする。なぜわざわざアナウンサーを呼んで論語?しかも論語カルタ?

鳥栖市のホームページの鳥栖市日本語教育基本計画を策定しましたというところから、その日本語教育基本計画のPDFを見てみるとこの謎が解ける。

(2)教科「日本語」の基本的な考え

教科「日本語」では、日本語を日本の文化や風土、歴史や伝統、精神、感性等を含むものであるという視点からとらえ、小中一貫教育において発達段階に応じた「言語力」や「表現力」、「コミュニケーション力」、「伝統の理解と継承」、「礼儀作法」を培わせることで、日本人としての教養を身に付け、地域や郷土、国家を愛する気持ちや国際社会における日本人としての主体性を育むことをねらいます。(強調は引用者)

ねらいます、とはっきり書いてあるよ。「日本語教育」という名で狙っているのは「日本人としての教養」「日本人としての主体性」だそうです。礼儀作法や伝統の理解と継承、国家(国ではなく国家と言っている)を愛する気持ちとか、それは昔私らの親の世代が「修身」として習っていたものではないか。コミュニケーションとか国際社会とか今風のことも書いてあるけれどもあくまでも育むのは、日本人じゃない子どもにも広く通用する教養や主体性ではなくて「日本人としての教養」「日本人としての主体性」。これを「日本語教育」という名前でやる。日本語教育ってそういうものだった?教養や主体性に話者の国籍や国民性を結びつけ、日本語って美しいね、日本人として嬉しいねとかそういうことですか?グローバルだのなんだのと言っているわりにはあまりに貧困な言語観といわざるを得ないではないか。

冒頭の「アナウンサーになぜ論語?」という疑問に戻ると、この計画のPDFをもう少し読み進めると伝統的言語文化の領域の具体的内容としてこうあるのです。

伝統的言語文化  昔話 神話・伝承 俳句 短歌 漢詩 論語 古文 等

つまり、この領域では論語をやれとわざわざ指定している訳です。漢文だったら論語に限らず面白いのもいっぱいあるのに、他の漢詩とか古文とかはジャンルなのにここだけ特に「論語」と書名を指定。なんで論語なのさ。漢文を読めるようにとかじゃないよね。それなら書名を指定する必要がないもの。孔子さんは勿論中国の方ですが伝統的言語文化に都合よく編入してるのはなんなんですか。論語カルタもある訳だよ。わざわざ作ったの?

アナウンサーの日本語が「正しい」とは思わない(それは相対的に他が正しくないという誤解を招く)が、アナウンサーに講師を頼む授業があってもよいだろう。でももうちょっとアナウンサーの仕事にふさわしい物を、アナウンサーでないと語れないことをしてもらったらどうか。論語は国語の先生が読めばええやないか。論語だって必ずしも悪いとは言わない。やりようによっては論語カルタがあってもいいだろう。

しかし「日本語教育」をかくれみのにして何か別のものをねらい、別のものを育むのはやめていただきたい。言語教育は話者の属性をうんぬんしその内心に干渉するものではない。一方で、従来の国語教育の枠に収まらない日本語教育を模索するならば日本語教育の専門家に話を聞くとか、いろいろできることがあるのではないか。言語を教育しようとする人がまず言語について勉強を始めてみるとよいと思う。一生かかっても終わらないほど面白いことはいっぱいある。言語は国籍を問わず国民性を問わず世界に開かれている。言語とは、言語教育とはそういうものだと思う。