物理学者は摩擦をスルーすることが文脈か?

Dan Kogai(小飼 弾)氏の
文脈論、または文法におけるその欠如、または"I love you"を日本語に訳せない理由という記事に反論を。

文脈というものがいかに文法において軽視。いや無視されているかは、Wikipediaをざっと眺めるだけでも感じ取れる。
(中略)
文法、あるいはGrammarに比べて、なんとそっけないことだろう。あたかも「文脈は文法ではスルーする」ということが、言語学者たちにとって世界共通の文脈であるかのように。

物理学の初心者向けのテキストで力学のごく基本的なところを学ぼうというとき、そのテキストが摩擦に触れていなかったとしたら、あなたはそれを評して『「あたかも「摩擦は力学ではスルーする」ということが、物理学者たちにとって世界共通の文脈であるかのように。』なんてことを言うのだろうか?

物理学者はスルーしているのでもなければ、研究していないのでもない。あくまで初心者向けのテキストの取捨選択の結果として、摩擦には触れられていないのだと考えるのではないか。素人が考えるようなことは通常専門家はとっくに考えている。考えていたってそのなにもかもを初心者向けのテキストにまんべんなく取り上げられる訳ではない。その分野を知らない人に向けてやさしく解説された文章の中に触れられていないからといって、専門家が重要な事項を「軽視」したり「無視」していると断じるのは、早計を通り越してあまりに不遜な言い草ではないか。

時に素人だって専門家も思いつかなかったような素敵な思い付きをすることもあるかも知れない。でも、そう思ったら○○学ではそのことについて○○学者が本当に検討してこなかったのかどうかを調べてから言及するべきではないか。いや、言及してもいいけれど自分が最初に思いついたという考えは大概間違っている。知らないだけの可能性のほうがずっとずっと高い。

そして、検討する対象は断じてWikipediaではない。Wikipediaをざっと眺め渡して『言語学者たちにとって世界共通の文脈であるかのように』とはあまりに片腹痛い。それを参考文献にしていいのは中学生までだろう。Wikipediaを見て世界中の言語学者に言及できるなら世界中の大学の言語学科はいらなくなってしまう。この世のほとんどの言語学者Wikipediaを書いているのではなく専門の論文を書いているのだ。何が軽視されているのか何を無視されているのかを問題提起するのは、その分野の基本文献を熟読してからでも遅くはない。

専門の論文まで読まなくても、たとえば大学生の一般教養向けの入門書などでも最低限の知識を得ることはできる。手元の「英語学概論」(西光義弘編2002 くろしお出版)という言語学の入門書から引用する。(ちなみにこの本の6章1節のタイトルは「文脈における言語の使用」というもの)

つまり発言内容あるいは聞き手にたいする話し手の態度をあらわすモーダリティの表現は日本語では文末表現などの具体的な形をとるが(中略)、英語ではもっぱらイントネーションなどの文字にあらわれないかたちをとる傾向が強いということである(もちろん英語にも付加疑問のようなセグメンタルのかたちをとる表現もある)。(p.246)

そういうことを考慮にいれずにDan氏は

日本語では「次の方どうぞ」というところを、英語では"next!"の一言である。丁寧にはほとどおいが、失礼にもあたらない。しかし日本語でここを「次!」に省略することはおよそ不可能だろう。

などと言う。一体その発話の全体の「文脈」を、つまりその言語ではどのように丁寧さを表すかというようなことを考慮していないのはどちらなのか。「態度」も「文脈」も、ごくごく一般的な言語学の入門の教科書に当たり前に触れられているのである。

とはいえ学者がそれではやはり困る(特に私が:-)。

「学者がそれでは」の「それ」というのはその前の「口に出してはだめよ」ということを指し、言語学者が文法における態度や文脈の問題について何も語っていないということだと思うが、上述のとおり、ご存じないだけで大学生が一般教養で使う教科書にだってなんぼでも、さらにもっと専門的な文献でもいくらでも語り続けているのである。当たり前だ、言語学者はそれが商売なのだから。

物理学者が摩擦をスルーしていないと同様に、言語学者も文脈をスルーなどしていない。しているように見えるとすれば、それは単なる勉強不足にすぎない。