引越しの準備をしていると出てくる本たち

この本を買った時はぎりぎりまだ80年代だった。

僕は自分の来し方について悔やむということをほとんどしない人間であるけれど、この大学での四年間については「もったいないことをしたな」という気がしないでもない。というのは、この「何もしなくていい時期」を僕はほんとうに「何もせず」に過ごしてしまったのである。

中島らも「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」PHP研究所 240ページより

まさに学生時代を「ほんとうに「何もせず」に」過ごしている最中であった私は自分のことだとは夢にも思わず読み飛ばしていた。当時体育会バカであった私の学生生活は、何かしているように見えてはいたが、どこの社会もそうであるように、体育会バカの中にもきっちり何かしている人とやっぱり何もしていない人とがいて私は後者だった。しかし時代はバブルだったので一つ二つの留年はむしろ勲章のように、バカ仲間たちは、そしてバカ仲間ではない人たちも、20年後にバブル世代のバカがと言われるようになるとは思いもよらずに結構な企業に就職していった。

私は小さな会社のワープロの先生になった。「教えることとできることは違う」と言って全くワープロができない新採用社員に先生をやらせたその会社はバブル崩壊の先陣を切るように潰れた。新人とはいっても応分の社会的な責任を引き受けて、大きい会社でも小さい会社でもバカでもバカでなくても仲間たちは誠実に働き始めていたが私は相変わらず何も考えていなかった。その後職を転々とするようになっても「自分の来し方について悔やむということをほとんどしない」まま、20年余りの月日が流れる間に自分はこの本を書いた当時の著者の年齢をはるかに過ぎて、中島らもは亡くなってしまった。

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 (集英社文庫)



中島らも恋愛論はなんだかとても痛い。今みたいに使われるようになったイタいではなくて痛い。およそ恋愛論なんてものはイタいに決まっているけれど、この痛みはなんだろう。「やり直せるなら」と決してやり直せないことを悔やむ痛みに似ているというべきか。

もし誰をも愛していないとしたら、結局僕は「いない」のだ。

中島らも「恋は底ぢから」JICC出版局 61ページより

何もしないまま学生時代だけではなくてどうやら人生も、いつ終わるかは知らないが、終わりそうな気がする昨今、自分は既に「いない」のかもしれない。いなくても構わない。どうせ百年後には間違いなくいないのだから、今既にいないとしても特にどうということもないだろう。

僕は女の子の胸は手のひらにスッポリかくれる程度のものがよいと思います。

同書 135ページより

余計なお世話である。

 注意したいのは、彼が言いわけをお酒に求めているうちは、お酒のせいにしてしまってやさしく言い分をきいてあげることです。
 まちがっても
「副え木あててでもガンバってみたら!?」
などとカツを入れてはいけません。

同書 138ページより

何の印象にも残っていなかったところが心に沁みる日が来る。処分できずにいつまでも手元に残してしまう本の中にこんなのがある理由もはっきりとはわからないでいる。

恋は底ぢから (集英社文庫)