法事いまむかし、とささやかな報告

四十軒に満たない小さな集落の半分ぐらいは「親戚」である。そのうちイトコハトコのつながりがわかるのは二軒ほど。後は単に苗字が同じだけとか江戸時代ぐらいに親同士が兄弟だったとかそういうレベルである。法事にはその親戚全部に来ていただいてお勤めの後は供養の膳まで出すのが子どもの頃の慣例だった。玄関から上がった口の間の隣は必ず仏間で、二部屋をぶちぬいて祭りごとをするために、この家の構造は絶対外せない。結婚式も葬式も家でやっていた。だから家を新築しようと思った当時の若夫婦、たとえばうちの両親などは少し洋風の造りにしてみたいと思っても絶対的な権力を持つ年寄りに阻まれてどこの家も同じような田の字型の間取りの日本家屋にせざるを得なかった。せいぜい応接間とか子ども部屋が洋室でおまけみたいにつけてある程度で、余談になるが今私が畳のある部屋に執着しているのは間違いなくこんな生育環境による。私にとって部屋というのは和室なのである。

そんな二部屋ぶち抜きの広い和室で行われる法事は寒くて、暖房器具といえば火鉢だった。灯油のストーブも一つ二つはあったがいくつもいくつもの火鉢が、居並ぶ老人達の間に、たくさんの炭が埋め込まれて並べられて、それはそれで手をかざせば結構温かいものではあった。お勤めの後は、何しろ男尊女卑の昔の田舎なので男達は酒盛りになり、女達は学校か公民館にあるような鍋でおつゆを炊いたり煮豆だの漬物だのを持ち寄り、主なご馳走は仕出し屋から取るのだがそれプラス酒だの副菜だのの接待でてんやわんやになるのだった。

それから四十年。田舎の集落も時代の波に洗われて、祭りごとは簡略化され今や法事には本当の親戚しか来なくていいのである。供養の膳もお勤めが終わったらご院主さん(坊さん)も交えて料亭からの迎えのバスに乗って食べに行く。暖房は火鉢ではなくなんの仕組みだか知らないがぬくぬくの部屋で法事参りが寒くて風邪を引くようなことはない。なんとまあ、楽ちんになったものよと感慨深いのではあるが、それでも十五、六人の集まりごとであればいかに気心知れた身内ばかりとはいえそれなりに大変である。そんな中で、私は田舎を出て行ってしまって都会(実家的には)で自由気ままなシングルライフを謳歌している極楽トンボなのだが、この家に帰ると現役世代まっさかりのアラフィフで今や高齢で認知症などもあって弱っている両親に代わって法事を切り盛りしなければならない当主なのだった。

十三回忌を迎えた祖母が彼の岸に渡った時にはまだ両親もその兄弟姉妹も元気だったけれど、今回集まってくれたのは八十代と七十代の夫婦が二組ずつ、うちの両親を合わせて五組で、集まってくれてるほうに何があっても全然おかしくない年恰好である。ご院主さんがなんだか有難いお経を上げてくれて、阿弥陀経だの正信偈だのは全員が唱和する。この手順は四十年経っても変わらない。アルゴリズムのように田舎の人は全ての手順を滑らかにこなしていくので「当主」と言っても別に出る幕はないのだが、最後の挨拶だけはそれらしくやらないといけない。坊さんが着替え終わる(仏壇の前で雑談をしながら袈裟を脱いで着替えるのである)のが挨拶のタイミングである。下座の方から扇を持って正座のまましずしずと進み出て、ご院主さんにお礼を述べ、続けてお参りの皆様にもお礼を申し上げて、まずは親族一同が無病とはいえないものの息災で十三回忌のお勤めができたことに感謝する。ささやかながら供養の膳も用意してございます。バスがお迎えに参っておりますのでご面倒でもお運びくださいともっともらしいことが勝手に口から出るのは都会ではコミュニケーションが苦手で友達も少ない私も田舎の子なので勝手にできてしまうのである。年齢からいえばそんなのはできて当たり前なのだがまともな社会人とはとても胸を張ってはいえない生活で実は今月末にまた仕事を辞めるのだとか余計なことは言わなくていい。

しかし余計なことのほうがメインであるネットでは報告しておこう。春から大学院生になって言語学を勉強します。研究テーマよりも自分のアホとの戦いがまず先にあってどこまでやっていけるのかはわからないけれど、バイトで生きていくことになるのだけれど、もう二度とブレずにこの道を行きたい。ネットで出会った人やら記事やらにも励まされての再出発です。年齢は関係ないと、これは本当に心から思っている。それで潰れるぐらいなら潰れたらよいのよ。プロを目指すのに、つい先日も言語学についての素人ぽい記事を上げたばかりですが恥ずかしがらずに晒していこうと思っています。皆様今後ともどうかご指導ご鞭撻をどうぞよろしくお願い申し上げます。