かばん一つで死にたい(引越し雑感)

いや死にたくありませんよ。今は。でももし死ぬ時が来たらその時はかばん一つで死にたい。これは昔とある年配の女性が言っていたのに感化されてかくありたいと思い続けて10年以上になるのだが、なんなんだよ、このダンボールの山は。という訳でまた引越しなのである。またというのは引越しが好きだからで、引越すこと自体は大好きなのだが、引越し作業はめんどくさいだけで別に好きではない、というかうんざりしてブログなど書き始めるわけである。

なんでこんなに引越しが好きなのか考えてみて、訣別ごっこが好きなのだと思い当たった。自分の執着から離れる。もしくは嫌なものから逃げ出す。物理的に離れてしまえば精神的にも心機一転したような気がするではないか。新たな土地で新たにやり直そうではないか。そしてやり直す。2年後ぐらいに、また新しいところからも離れたくなる。そこで押入れに2年間封印していたダンボールを空けてみる。訣別したはずの過去が出てくる出てくる。その中から少しだけ、もう傷が癒えたものなんかをちょこっと捨てる。できた隙間に新しく執着した物を詰めてまた封印する。また空ける、また少し捨てる。封印する。空ける、詰める、空ける、封印する。その繰り返し。

親元を離れた18歳からアラフィフの今まで延々とそんなことを繰り返している人間がかばん一つで死ねるはずがあるだろうか。ともあれ、転職が機会としては多いのだが、海外に出た時はどうしても自分が執着してしまう振られた相手から訣別したいという思いもあった。そしてそれは成功したのだが、Facebookというろくでもない物のせいでまたつきあいが復活してしまった。ただ、もう今はその人に対する執着はない。これは引越しではなくて時が解決してくれたのである。

一度海外に出たのは年賀状を全部やめるとかもう過去の人間関係はオールクリアーでいいやと思い切る契機になった。実際には年賀状はやめられたが人間関係はオールクリアーどころかまたしてもFacebookで中途半端に大復活してしまい、前よりもややこしいことになっている。これを見るに、私は結局のところ訣別なんかしたい訳ではなくて訣別した振りをするのが好きなのである。内心未練たらたらで構ってほしいのである。ただのアホとしか思えない。

多くはない蔵書も折に触れて処分しているのに80年代に傾倒していた本も90年代に好きだったことが今となっては恥ずかしい本も所を変えただけでまだ本棚に並んでいる。自分の人生の歴史というよりはほとんど黒歴史である。しかしまあ、無理して訣別しなくてもいいか、とそれは数え切れないぐらい引越しを繰り返して今日になって初めて思ったことである。いずれは否応なく人生の全てと訣別しなくてはならない日が来るのだから。

かばん一つで死にたい。引越しのたびに少しずつ無駄な抵抗を続けて、ある日力尽きて倒れるのが現実的な解かも知れない。しかしこんなことを書いている間に一つでもダンボールを梱包しようなどという気は皆無である。実際にはダンボールに埋もれて死ぬに違いないと思う。