『大雑把な菊池さん - Interdisciplinary』へのブクマの続き

これはこの記事につけたブックマークコメント
の続きです。

rosechild:理想としては誤解を招こうが不用意だろうが不親切だろうがなんでも好きなことを言っていただいて、失言や迂闊な発言などについてはその都度批判、反論をしていくしかないと思っている。しかし(以下後で書く)

(承前)それを、すなわち「その都度批判、反論していく」ことをこの件に関して極めて精力的に、建設的に行っているのは誰あろうublftboさん、TAKESANさんである。

信頼できる論者の失言だの適当な物言いを許容するためには、周囲が適切に批判し反論しよりよいものを提示していくことによってその見解の質を担保する必要がある。不用意な発言をしない人なんかいないんだから、お互いに批判しあっておかしな点は議論していけばいい。

問題は、多くの人は批判も反論もしないでいながら「その都度批判、反論していくしかない」などと寝言を言うことである。いや多くの人じゃなかった。それを言ったのは私です。勿論誰にも何かを批判をする義務はない。しかしその都度批判、反論しろというなら実際にするべきである。それをしないでいながら、実際に批判も反論も行っている人が別の提言をした時に「いや発言は自由にしていただいて批判すればいいじゃん」とかいえるのか。いうのは勿論自由だけれども、実際やっても世界が変わらないから他の方法も試みる必要があるんじゃないかという提言として耳を傾けるべきではないか。

予断になるがTAKESANさんにとってはブクマ等で指摘されていることはほとんど先刻ご承知のことだろう。でも実際に世界が少しでもましな方に近づいていかないのであれば、あくまでもメリットとデメリットを差し引きした選択の中で「控えるべき」というのはぎりぎりの強い表現なのではないか。当然その後ろには個人の信念なりモラルや考え方があるのであって「こうあるべき」という世界像が個人で異なっているのは前提である。今はバラバラの信念の中である程度問題意識を共有できる場合の話をしている。

蛇足ながら私は当該の菊池さんの発言について現時点でははっきりした意見を持っていない。当該の発言を迂闊だとか失言だと言っているのではない。そして、ブクマに書いたとおり一般論として発言者に自制を求めることはできる限り避けたい。しかしそれを避けるのであれば自ら積極的に、避けてもデメリットがメリットを上回らない状況を作ることに貢献するべきだと思う。それが必ずしも反論や批判という形をとる必要はないけれども。

当たり前の結論をとってつけると自分が言っていることには責任もてということで、ブクマするって楽だけど実際に他者の発信を丁寧に批判的に検討するとかは面倒で、TAKESANさんの問題提起はやるべきことをやっている人がそれを言っているという点において、それだけではその論の正しさまでは保証しないけれども、説得力が高いと思う。

以上長すぎるブクマの続きでした。