書評「翻訳はいかにすべきか」柳瀬尚紀

りんごジャムを作っていたはずなのだが、ジャムともコンポートともつかないなんかベタベタした代物ができた。予定を変更してパンにつけてもヨーグルトに入れてもおいしい謎の物体Xを作ることにする。大成功である。

これ読んだ。

翻訳はいかにすべきか (岩波新書)

翻訳はいかにすべきか (岩波新書)

丸谷才一ほか、大御所から何からの誤訳、悪訳をぶった斬り翻訳はかくあるべきと示す。私はまさか「日本語のために」を書いたあの丸谷が関わっている「ユリシーズ」がそんなひどい訳だとは露考えたこともなく、老後の楽しみに読もうと思っていたのに人生設計の変更を余儀なくされた。

具体的な翻訳については、原文と論拠を示されて誤りを指摘されよりよい訳を提示されるので素人目にも納得できる。何よりも訳のわからない翻訳小説を我慢しいしい今に面白くなるに違いないと読み進め最後までなんだかもひとつわけがわからんまま終わってしまいこれほんとに面白いの?なんで?私って頭わるい?と自分の頭のせいにしとけばとりあえず誰も傷つかなくていいやというのは、読者の態度としてもよくないということはよくわかった。そういう態度がつまり、どうせわかってない奴らには何やってたってわからないんだから適当でいんだよこまけーこと言うなよという「翻訳文学」を成立させてしまうのである。マンデラ氏の葬儀でむちゃくちゃな手話通訳していたおっさんは、そういう意味でその辺にいくらもいる。我々は自分の知らないことに関してはコロッと騙され騙されていることにすら気づかないことをあのおっさんは教えてくれた。

職業翻訳者はそんなに数は多くないだろうが、仕事上ちょっとした外国語を訳したり通訳したり、そして外国語でなくても専門用語や知識を解説したり教えたりする、要するに手話通訳氏と同じようなことをやりかねない機会というのは、案外よくあることだと思う。手話の場合は手話を知らない限り見抜くことは難しいが、翻訳の場合は原文を読めなくても日本語がわかっていればある程度判別できることもある。「ちゅうかその日本語はそもそも意味わからんやろ。それは訳ですらないぞ。なんやねん。」というのは、たとえば高校や大学の教室では日常茶飯事すぎてもはや英語の先生たちには郵便ポストが赤いぐらい当たり前のことだろうが(学生の訳がひどいという意味です。英語の先生がひどいという意味ではない)柳瀬氏が大学の教室に入り込んだら憤死しそうである。しかし柳瀬氏はそもそも元は大学の先生だった。憤死していないということは、大学生についてはあきらめてせめて職業翻訳者はそんなことではいかんぜよといわずもがなのプロの心構えを、残念ながらいわずもがなではないもんだから言わずにはいられないのか。

原文はどうあれ、訳した先の言語として意味の通じないものを公にしてはいけない。自分もわかってないことを言ってはいけないし読者がわからないのをいいことにやっつけ仕事でいてまえでは話にならない。当然のことではあるけれど、もっと卑近な所であの手話通訳のおっさんのミニミニバージョンをシレっとやっていないか、自戒したい。

という訳でこの本を貫く哲学は誠に正論でありごもっともであり翻訳者ではないけれどもわが身を省みて心したいところである。しかし各論としては2000年の出版の初版を読んでいるのだが、古いなあと思う。今時二葉亭四迷を読んだことがある人が専門の研究者以外にどれほどいるだろう。そして筆者の言葉遊びは元ネタが古かったりセンスがおやじすぎて、言葉遊びこそが筆者の真骨頂であろうとは思うものの全く共感できない。どうだ、この訳で「あんたがたどこさ」を想起するだろうと言われても、今の子供がまりつきをするとも思えない。「ユリシーズ」は小説全体が英語版の言葉遊びの塊であるらしいので、その遊び心をわかりやすい日本語に精神ごと移そうとする作者の苦心はよく伝わってくるけれど、いかんせん古すぎる。それでも研究者しか見ないものとなってもまともな物を残そうとするのが翻訳者の仕事であり矜持でもあるのだろうか。

ユーモアのセンスは私は好きなタイプではないが、マニア向けには一読して損はないかも知れない。詩人の堀口大学のエピソードなども興味深かった。私が初めて柳瀬訳の文章に触れたのは、今は絶版になっている新潮文庫ジェフリー・アーチャー「無罪と無実の間」(永井淳訳)に出てくる訳詩の一節だった。そしてその訳はその小説(戯曲)の中でとても美しく大事な役割を担っていて私を魅了した。翻訳というものが単語の羅列を訳するのではなく、そこにある楽しさと美しさと何より心の弾みをこちらに持ってきてくれるものだと知った経験だった。

私はこの本のセンスとユーモアはあまり支持しない。古いものを現代に蘇らせるのが必ずしも筆者の意図しているように成功しているとは思えない。しかし自身がここで力説していることを自身の誇りにかけて実践されていることをわずかに知っていることをもって(他の著作を読んでいないという保留を付け加えざるをえないが)、この本の思想と哲学を支持したいと思う。