自分で自分を叩くと痛い2014

訳あって自分の修論を読み返すという昔書いたラブレターを読み返すよりも恥ずかしい一人羞恥プレイ中なのだが、この修論がコンプレックスで私は長い間、私なんかダメだとふてくされていた。確かにダメなのである。それはもう、どっからどう見てもダメなのであって、何年経って読み返したってダメなもんはダメなのだが、ようやくこれを自分の手でズタズタに批判しようとするところまで来た。「なんかもう論外」だったものを、たとえ論外だろうとマイナスだろうと何がいかんのかきっちり見極めたい。なかったことにするのをやめて、そこからやり直すことを始めた。

一つずつ検討していく。文献は必要なものがきちんと網羅されているか。それぞれについて自分の評価が出せているか。その評価に裏づけはあるか。方法論は明らかにしているか。実際に本論がその方法論に沿って論理的に展開されているか。データは足りているか。データの処理は適切か。データから言えることを過不足なく言っているか。自分の提起した問題に対して答えを出しているか。新たな課題があったか。今後の課題は何か。

これがほとんどNoだという非常になかったことにしたい現実があるのだが、じゃあなぜ私は修士を取れたのかというとその答えもわかっている。このレベルで修士を落としていたら脱落者続出で修士の時から優秀な人しか修了できなくなってしまうため。しかし修士に限らないのだが、とにかくやっつけ仕事でむちゃくちゃやっちゃったものは取り返しはつかないからそこは認めて問題点を全部洗い出す。次やるべきことを見極める。これができたらもう、その恥ずかしい仕事は開き直っていいのよ。そこまでしかできなかったんだから。で、ボコボコにしてやるという視点で自分の書いた物を見るとなんか楽しくなってきた。マゾヒストだからもとよりボコボコにされるのは好きなのだが自分でボコボコにするのも楽しいのだ。MとSは表と裏。容赦なくやりたい。

と気づいた時、人生は折り返しを過ぎて目の前には五十の坂が見えてきている。とりあえず、今ここに書いたことをなかったことにはしない。そしてどんな形であれ一つでも二つでも貢献できることを見つけたい。言語学をやり直したいと思う。