レジスターを巡る勝手な混迷

(半ば独り言、半ば公開メモ)

レジスターという概念がうまく説明できない。どっかによい説明があったら引っ張ってきたいと思ってethnographyの教科書を引っ張り出してみた。ethnographyというのは「民族誌学」などと訳されている。字義どおりには民族の文化を記述する学問だが言語学方面ではたとえば「社会的文化的な文脈において言語を記述する」あるいは「コミュニケーション全体の中で『言語』を位置づける」といった方法論の一つとして取り入れられたりもしている。

その名も"The ethnography of communication -an introduction" (Saville-Troike:2003)というこの入門書は、入門しかやってない私がいうのもなんだけどethnographyのよい入門書である。レジスターについての説明が引用できたらいいかなと思ってざっくりその辺を読んでみたら、こんな記述があった。

"When physical distance cannot be maintained for some reason, such as in a crowded Japanese household where all four grandparents sometimes live with children and grandchildren, very polite language (the highest form of Keigo) may be used to maintain social distance, even though a less formal variety of Japanese would normally be appropriate."(p.63)

拙訳:「物理的な距離が何らかの事情で維持できない時、たとえば日本の込み合った家で祖父母4人全員がしばしば子どもと孫と同居しているような時には、非常に丁寧な言葉(最上級の敬語)が、社会的な距離を保つために、普通はもっとくだけた日本語の方がふさわしい場合でも使われうる。」

・・・・・なんじゃこれは。橋田壽賀子のドラマでもそんな場面はないだろう。私は3世代同居が当たり前だった時代の田舎で育ったけれど、祖父母が4人とも同居してる家なんか見たことないぞ。私の知らない日本にはどこかにこれがそんなにおかしくない世界があるのだろうか。皇室でもあるまいし少なくとも2003年の版で一般的に日本で家が狭いにしろ4人の祖父母が同居していて家族間で最上級の敬語を使っているなんて観察はsometimesには成り立たないだろう。一体著者はどっからこれを引っ張ってきたのだ?

同居している義理の家族の間で、夫あるいは妻に話す時と義理の父母に話す時と子どもに話すときとでレジスターが異なるという話であればわかる。しかしレジスターが状況設定によって変わることを言うためにほぼありそうもない状況設定を持ってきてはいけない。テレビのバラエティー番組で他国だの○○県だのの風習をおもしろおかしく誇張するのは許されるのかも知れないが、ethnographyの教科書がそれをやっていては根本的に話にならんではないか。

ということで、今さっきよい入門書ですよとお勧めした私には大きな疑念が湧いてきたのである。一体私はこの本をちゃんと読んだのだろうか?修論にも引用したはずなのだが、この一事を見るだけで、どうも私はレジスターとはこういう概念だとかそういうところは丁寧に読んだけれど、個別の事例に関してはろくに読まずに読み飛ばしていたのではないか。いや、明らかに読み飛ばしていたのだ。だめぢゃん。信頼できないのはこの本ではなくて私だった。よい入門書ですよとか言えた義理ではない。

教訓:自分が論を立てるのに必要な概念は自分の言葉で説明しろ。その概念を編み出した人に敬意を表してその定義をまんま引用するとか、自分でも説明できるけれども誰かがすっきりと美しい説明をしているからそれを引くならよいけど、うまく説明できないから適当な教科書から引用しようとかいう根性が間違っている。それから全体を把握していない本を知ってるふうに評価すな。(適当に続くかもしれない)