SJLL Vol2読んだよ その2

標記の雑誌(Semiannual Journal of Linguistics and Languages) Vol.2について中身に立ち入って書くことの続き

id:killhiguchiさんの論考に対して評を書こうとするといつになるかわからないので当面読書ノートを随時晒すことにする。以下はとりあえず私が読み取った流れのメモ。論考のベースになっている山田孝雄、尾上圭介の本は読んでいないので孫引きとか孫解釈が入っている。メモなのでそもそも筋道だっていないのですが、killhiguchiさんでも他の方でも、もし読み取り方があまりにもずれている、わかっていないというような、私があさっての方向に行こうとしているようなことがあればご指摘いただければ幸いです。

喚体という概念について。「文」が成立するために必要なのは何かと考える。いわゆる普通の主語述語があって、述語にはもにょもにょと状況説明的な諸々がくっついているものたち。(この諸々の動詞付属物は複語尾と呼ぼう。)それを述体としよう。それは文の一形態であると。

しかし主語も述語もなくてもたとえばいつもズボンのチャックを開けたまま歩く癖のある人に「チャック!」 口を開けてぽかんとする癖のある人に「口!」という時の「チャック!」は文か。

「おい、またチャック開けたままかよ、みっともないから閉じろばか」とか「あのね、あなたがだらしないのは知ってるけどね、お口閉じなさいよ」とか、そういった心の働きを一語とか(あるいはここで問題提起されているようにそれ以上の、複語尾つき)で表せる、そうした表現を文と認め述体に対して喚体と呼ぶと。

この喚体が成立しうる過程を「概念素材形式を投げ出すことで心的行為を表すメカニズム」とするならその概念素材形式を名詞に限る必要はない。ということで動詞の終止法でもいけるではないか、「わ、動く!」とか。

ならば、さらに「事態の概念」にも同じモデルが適用できるのではないか。事態は一語の名詞や動詞ではなくてその組み合わせなので、主語とか述語とか述語に付随する状況説明がより複雑にからんできて、普通の、喚体という概念を持ち出す必要のない文に近づいていきそうなのだが、まて。

動詞の場合、素材形式というのはスル形で表されて、その時のみ、この「心的行為」感を表せた。ならば、同様に「終止法独自の用法」が みられる「複語尾」を検討すれば、実はこのメカニズムが事態の概念にも適用できるかどうかを検証できるのではないか。

とりあえず今日はここまで。ぼちぼち読んでいきます。