論理的に正しいことが事実として正しいとは限らない件

自慢じゃないが私は麻雀が弱い。昔はよくねぎをしょって薬味を添えて鍋になりに行くカモだったが、ずいぶん月謝を払ったわりに上達しなかった。しかしそういう奴に限ってヘボ麻雀をやめないので、今夜ももうすぐ麻雀が始まるの何よりの楽しみにしている。それはともかく、

前回の続きです。「論理的」であるとはどういうことかを考えるにあたって、始めに「論理的に全然違う」ということの意味を考えました。まず「論理的に違う」ってのは実際に比べてるブツがどういうもんかは見てないんだよという話をしました。二つのものを比べるのに中身を見ないなんてなんなんだと思いますが、中身がバカだろうと非科学だろうとハゲだろうとカニかまぼこだろうと関係ない、というのが論理の一つの重要な性質であると私は考えています。極端な話、中身がなんのこっちゃわからなくても論理的な判断はできる訳です。たとえば次のような言明はいずれも論理的に正しい。(例文にはこのシリーズを通して通し記号をつけます)

e.バラライカでないものがスルメイカでないこととバラライカスルメイカであることは論理的に違いますね。
f.ホンジャマカでないものがナンジャロカでないこととホンジャマカはナンジャロカであることは論理的に違いますね。

いずれも「○○でないものが××でないことと○○は××であることは論理的に違いますね」という形をしています。この形を見ただけで、味や値段や科学的や非科学的やハゲやモテを考慮するまでもなく、2つの言明が「論理的に違う」といえる。ちなみに「AとBは論理的に違いますね」という言い方は、違うものであるAとBを一緒くたにして議論している人や、Aを批判すべきところでBを批判して何か言った気になっている人に対して使うと効果的ですが、単に違いを指摘する場合もあります。

中身を見ないということは、明らかに事実として間違っている、あるいは科学的に間違っていることであっても論理的に正しいことはあり得るということとも関係してきます。

g.犬が哺乳類なら牛はコケコッコと鳴く。犬は哺乳類である。よって牛はコケコッコと鳴く。
h.あなたのこころがきれいなら、水が綺麗な結晶を作る。水が綺麗な結晶を作らない。よってあなたの心はきれいではない。

どちらも事実としては端的に間違っていますが、論理的にはまったく正しい。「論理的」ということばには整合性があってつじつまがあって科学的にも道徳的にも正しいみたいなイメージがあるように思いますが、科学的に間違った方向に一貫している場合もあるし道徳的に間違った方向に辻褄が合っているもあるし、全くでたらめな仮定とでたらめな結論を正しい論理でつなぐこともありえます。上述の例のように、そもそも前提が間違っているから論理的には正しくても結論は間違っていることもあります。

さて、「論理的」かどうかは中身でなく形を見るのだといいましたが、「形」だったらなんでもいいわけではなくて、論理が見る「形」は限られています。たとえば、カニカニかまぼこだって、形を見れば味や値段を見なくても違いはわかるわけですが、論理で扱うのはその形じゃない。では論理で扱うのはどんな形なのか。

また長くなってきましたしもうすぐ麻雀が始まりそうなのでこの続きはたぶんまた明日。になるような気がしないような気がします。