仮定を追加してもよいという話
何人かの方から、「昨日のエントリに例示した反例をあげる手法も背理法の一部ですよ」という指摘をいただきました。
私の主張はこうでした。
ところで俺はモテない。←これは、新たに持ち出してきた前提であってAから導いたんじゃないよね。だから「Aを仮定して」矛盾を導くという背理法の定義にあわない。
ところが、コメント欄でのfugaさんの指摘、
論理学では仮定無しで導けることは
仮定をより多くしても導けることになっています
またブコメによるid:t-tanakaさんの指摘
「((A→B)∧(A→¬B))→¬A」が背理法による否定で「((A→B)∧¬B)→¬A」は反例による否定という論。しかし「¬B→(A→¬B)」なので後者も自動的に前者になる。
つまり「ところで俺はモテない」がいえるならば、「ハゲならばオレはもてない」もいえると。郵便ポストが赤いなら俺はモテないも、電信柱が高いなら俺はもてない」もいえると。
「Bである」を認めたら、「AならばBである」も認めなくてはならないと。事実としてはAだろうが¬AだろうがBなんだけど、論理的には仮定を増やしても構わない。つまり、反例というのは、¬Bの前に勝手にAならばを補って背理法を満たす形にしていいのですね。
ハゲの例を直しましょう。
ハゲならばモテる。
オレはハゲだ。
ところでオレは(ハゲならば)モテない。
いや、ハゲならばじゃなくてあんたがモテないのは性格悪いんでしょといいたいところだが、「モテない」ことを認めてしまった以上、反例を受け入れる以上は、それが仮定を付け加えて背理法を満たす形になることも認めなくてはならないのか。
という訳で、論理学では仮定なしで導けることは仮定を多くしても導けるというご指摘を受けて、「反例は背理法ではない」説は撤回します。
ご指摘いただいた皆様、ありがとうございました。
まだまだ間違っていてさらに訂正することがあるかもしれません。もしまたいたら、さらなる突込みをお願いします。>皆様