確定申告の「並び」は寒い

何が言いたいかというと、あのひもとかテープで区切って作った急ごしらえの並ぶ場所は、高齢者には大変である、なぜならつかまるところがない、かつ非常に寒いから、ということです。

 

確定申告の季節にはSNSなどでこの話を何度かしてきたのだが、私の友人に税務署の人はいないし、若い人はネットやらなんとかタックスやらで申告するのであまり気にならないところだと思う。

 

私は去年から郵送していて、もう並んでいないのだけど、一昨年までは毎年並んで提出していた。そして並んでいる間暇なので周りのじじばばを観察するのだが、圧倒的につかまるところが不足している。高齢者を長時間並ばせるのは、危ない。倒れるよ、だって寒いから血圧も上がるだろうし、ストレスも高まるし。

 

私は地方都市と田舎しかしらないのだけど、田舎の場合は税務署でなくて役場に行くのだが、こっちの方が状態はよい。絶対的な人数が少ないので、椅子が並べてあったりもともと年寄りしかいないので年寄り仕様になっている。

 

しかるに地方都市では若い人と年寄りが混在していて、並ぶところが若者仕様、つまり並んでる途中でつかまらないとつらくなるとか、地味に少しずつ動くのがつらいとか、そういうことは考慮されていないテープに沿って並ぶことの何が大変なのかわからない人向けになっている。いいですか、高齢者は腰痛がデフォルトなのです。血圧はいつも高めなのです。足元は不安定なのです。そして一回バランスを崩すと自力でぱっと立ち直れないのです。

 

というようなことは、自身も初老と言われそうな年になって気づいたので、まだまだ並ぶ以外に提出の方法が取れない、主に高齢者のために、少し優遇したり、座って待てる場所を作ったり、あったかい所で待てるようにしたり、配慮してもらえると嬉しいということを毎年この季節になると思うので、今日はここに書きました。

ほんの粗発表ですが

言語学フェス2021参加記録

 

参加した経緯:「途中段階でもいい。悩み相談でもいい」「学部生や部外者も発表者としても参加できる。ハードルは高くない」

ふむふむ。とかなんとかいいつつ、めっちゃ高度な発表ばっかでせっかく冷やかしに来た人や初心者がおそれをなして帰ってしまったら残念だ。そういう人も気楽に見られるもの枠なら、参加できるのではないか。大人の自由研究的なノリでよければ。

 

「研究発表は議論する枠。このほか研究紹介などゆるい話題も発表できる枠がある」

ここは敢えて、研究発表へ。なぜなら、これからやります、やれたらいいな、とちょっと気にかけているだけの研究なので、紹介できることがなく、何をしたらいいのかこれから考えるから。

 

準備:前々日まで仕事で忙殺され、実質2日。材料はデータとしてはまだ外に出せない録音といくつかの観察記録。ポスター発表の経験なし。1年前にポスターをやるはずだった研究会は、コロナで中止になっていた。主催者の出してくれている雛形のみダウンロードし、サンプルを見るとA4を並べていける感じ。なんとかなると見て見切り発車。今年1年コロナのせいでほぼ休みなく授業スライドを量産してきた経験から、未経験でも2日あればポスター1枚は必ずできるという確信があった。そこに焦りはなかった。「途中経過で良い」というお墨付きもあった。

 

当日:開始直前にポスターを貼ってなんとか開始。前半は自分のコアタイムではないので色々見に行くべきところ、トイレにこもってしまったため全くどこにも行けず。

 

コアタイム開始はまだトイレにこもっていたのだが数分遅れで開始。閑古鳥が鳴くなか、初めの頃に丁寧に見ていただいた先生方には「解説が必要なところや質問があればおしらせください」とはアナウンスしたものの、声をかけるタイミングを失してしまう。前半にいろいろ見に行けていれば上手な人を真似できたのだろうけど(トイレから出られないのでどうしようもなかったのです)。後半、若い人や知り合いが何人か来てくれたタイミングで説明を始めて、だんだんしゃべれるようになり、最後にはすっかりリラックスして初対面の先生や学生さんとも楽しくお話しできた。

 

発表:上述のような急ごしらえの発表で、もとより稚拙なのだが、構想としては今までのプライベートな観察で、おそらくいえそうな仮説があった。しかし実際には、その仮説が全く言えないデータを採用したというか、使えるのがそれしかなかった。結論は「これだけでは何も言えない」。ある先輩は「フェスらしくていいんじゃない?」と言ってくれた。

 

ご覧になった先生方、先輩や同業者からは「ちゃんとやれば面白くなりそう」的なコメントをいただいて勇気づけられる。全く海のものとも山のものともしれない段階だったので、ちょっと今すぐは無理なんだけど今後必ずやろうと思われた。

 

そして最も意外だったのが、数は少ないながら何人かの若い人から非常にポジティブなフィードバックをいただけたこと。こういうところで、学部生や若い人たちがちょっとしたタネのようなものを出したものを、みんなで水をやったり日を当てたりして育てるみたいなのはまさにこんな集まりの目的に叶うところなのだが、私の場合は若くもなく学部生でも院生でもないというのがアレだというのは措いて、若い人が刺激を受けてくれた、なんかのきっかけにしてくれた。報われた思いでいっぱいになる。

 

なんとかしてドタキャンできないだろうかと思うほど何もできていなかったのに。自分の反省点はそれを書いていたらあさってまでかかるので書かない。発表者自身のプラスのインパクトというものを、忘れていた。最後は駆け込みでいくつかのブースに寄って、見られなかったポスターをいくつか送っていただいたりする。

 

「海のものとも山のものともわかりません」という代物を発表できる機会はあまりない。しかしもっていっただけで進む方向が見えてきたりして出した本人がびっくりである。私はまるっきり、初めて参加する若い人のようだった。そして、そういえば初心に返ってやろうと思ったのだった。いつまでもバカでいていいという訳ではないが、初心に返って悪いことはない。この機会があったからできたことだった。参加させていただいてありがとうございました。

 

 

 

 

緑の白船が逝く

安野光雅は小学校四年生の時に鉛筆書きの新聞を発行したという。ニュースや漫画や、連載小説や広告まで載せて無料「いや、読んでもらえばこちらが金を出してもいいと思うくらい」だったという。「緑の白船」というタイトルの、その連載小説はこんなのだった。

石州津和野城下から北へ二十里行くと、東洋一の屋敷があって、このあたりの人は杉屋敷とよんでいるのであった。そいでその家の中に住んでいる杉守老人を見た人はだれも見たことはなかった。そいでからもちろんこの家には杉守老人しか住んでいなかった。そいで杉守老人の屋敷は壁に囲まれていて城のような家で見知らぬ人を見たらすぐかみ殺す犬が居るけえ猛獣使いでも近づけなかったのだ。

                                                                   安野光雅「起笑転結」文春文庫 p.188 

 見た人は誰も見たことはない杉守老人と見知らぬ人を見たらすぐかみ殺す犬の運命やいかに!と今読んでも血湧き肉躍る展開の小説は、しかし作者本人の「華麗な”名”は”実”のないときの方がすばらしかった」という箴言で振り返られているのだが、この天才は子どもの時から真正のエンターテイナーであった。

 

福音館書店(ちなみにこの読み方は「ふくいんかんしょてん」です)の絵本で安野に出会った人は多いだろう。私もそうだった。母の実家に「ふしぎなさーかす」があって、私はそれを寝たきりの祖母に読んであげた。しかしそれは絵ばっかりで読んであげるところは何もなかったのだが、確かに読んであげていた。どうやって楽しんでいたのかわからないが楽しかったことは、そのライオンたちが火の輪をくぐるイラストと同じようによく覚えている。50年前の話である。(下のリンクは1981年の本になっているが初版は71年に出たもの)

子供たちは長じて後にたとえばエッシャーを知る。しかしエッシャーをおばあちゃんに読んできかせることはできない。何も文字はなくても絵だけでエッシャーの物語をこどもにもおばあちゃんにも楽しく見せてくれた人は安野光雅しかいない。

 

安野は絵の業績があまりにも偉大すぎて、軽妙洒脱なそのエッセイについては、語られることが少ないのではあるまいか。しかし安野の怖さはそのエッセイにある。その思考は痺れるように論理的で明晰な思考はどこまでも合理的だった。そのエッセイもまた幾多のだまし絵と同じように、楽しみの上にもまた楽しみを重ねた過剰なサービスの賜物だった。

 

冷徹な思考は、世界中の人々から愛された人間味のあふれる日常のひとこま、不合理と余剰と魑魅魍魎を煮詰めたような人間臭さのただようスケッチとは対極にあるかのように思われる。しかし凡人であればそのどっちかの世界にしか住めないのであろうが、天才はこれを俯瞰して両方の世界をいきつ戻りつしながら世界の広さと奥深さとを、時に美しいスケッチで、時に一枚に何十匹の動物が隠れているような不思議な空間で、そしてある時には論理に裏打ちされた玲瓏な光を放つ散文によって伝えてくれる。世界の何をやっているのか凡人に理解されない天才たちは絵心のない安野なのかもしれない。

 

もしも私が信仰を持っていたならば、それに基づいて天国なり極楽浄土に故人が旅立ったと思うのは筋が通っているだろう。しかし無神論者の自分は、物質的な死は死としてただその事実を受け入れるのみである。そして、こういう思考は、私は徹底的に安野から学んだ。そんなことを教えた覚えはないかもしれないが、学んでしまったものは仕方がない。寂しくなる。寂しくて仕方がなくなるが、自分もやがて土に還る、それまでの過程の痛みである。

 

とかなんとか感傷的になってはいるのだが、せっかくだからいくつかお勧めを紹介しておこう。はっきり言って高い。高いけど、たとえば「もりのえほん」なんてこれ1冊で無人島に行ってもいつまででも楽しめると思っている。


五十余年の今までの人生で、ずっとお世話になり続けた方でした。無神論者ではありますが、緑の白船に乗って旅立たれる姿を想います。ありがとうございました。

 

お土産を持って来ない人

年一回のペースで集まっている会合がある。とある町の駅前の飲み屋で、毎回3-5人ぐらい、去年一人亡くなってしまった。今年はコロナで開ける目処が立っていない。

 

当然のように自分は受け入れられていると考えているメンバーの中で、「あれ、そうでもない?」と気づく時がある。それはつらいけれども、けっこうあるのだが、このメンバーはふだん全く会わない、この時にしか会わないのに完全にリラックスして受け入れあっていると思っている。もうここで「あれ?」となったら終わりだけど、ならないと思う、そんなメンツ。

 

この中で私はただ一人お土産をもってこない人である。そういう信念があるのではなくて毎回たまたま忘れるのである。しかし自分は年に1回しか合わないそのメンツの中で十分に受け入れられて楽しんでいる。と思っている。

 

次こそはお土産をもっていくのだ。メンバーの一人はパートナーさんに入れ知恵されて、かさばらず、日持ちがして、おしゃれでおいしい、絶妙のセレクションを毎回もってくる。なんてことだ。なんで私だけなにもなしなんだ。ありえない。

 

私は職場のお土産が嫌いだった。おいしいのだけが好きだけど、おいしくないのを買ってくる人と、そして上司とかが、もらったそれを私にくれること、くれたら喜ばなきゃいけないのが嫌だった。ほら、甘いの好きだろ、みたいな。好きですよ、でもこんなまずいのは嫌いですよとかはさすがに私も言えない。わーい、ありがとうございまーす、ぐらいなことは言ってたんだよ、若い時は。ああ嫌だった。だからその1つを取っても、今非正規雇用ばっかであと10年もしないで仕事がなくなってそのあと30年ぐらい生きるかもしれないのにどうするんだよってことを考えても、嫌いなお土産を喜ぶ必要がないから、今の生活もがんばれる。

 

でも持っていくのも持っていかないのもよし、義理でないお土産はおいしい。これはあってもなくてもなんの問題もない、と持っていかないほうが言っている、そんな関係が一つあることは本当に幸いなことだ。今年会うことができないのはなんと残念なことだろう。コロナが終息してくれれば、あの飲み屋でまた集まれる。それまでは当面それぞれ体を大事にしようね、それしかできないけど、とさっき首謀者にメールした。

 

亡くなった友人の一周忌をそれぞれの場所で偲んでいる。

 

新春雑感2021

Happy New Yearよ、ほーんとにね、すごーいよ(クロマティーの口調で)

いや凄いよね、クロマティ。今ウィーラーとやってるのYou Tubeで見て、ほんま凄いなとHappy New Yearな気分になっています。ありがとう、クロマティー、ありがとうウィーラー。You Tubeの功績やね、私巨人嫌いなのに、個々のやってる人たちはみんな格好いいなあとYou Tubeみて思うようになったもんね。人生で村田真一を好きになる日が来るとは思ってなかったよ。そして激うまな肉じゃががあるんですけどね、作ったんだけどもうすごーいよ、感動よ、あのね「何かを育てている人」は凄いと思うのね。子どもは勿論だけど、動物でも植物でも、部下でも学生でもなんでもね、私は何も育ててないね、それでなんか育てようと思って買ったのね、鉄製のフライパン。20センチだよ、小さいね、ほとんどスキレットだね、いいんだよ一人だしね。ほんで毎日少しずつ育てたらね、今日ついにやりましたよ、激うまな肉じゃが。すごーいよ。Happy New Year だよ、ほんとにね。

 

今年はとてもよい餅をみつけた。それはただのスーパーの袋に入った丸餅が、大晦日の夜に半額になっていたものなのだが、大きくて柔らかくてよく伸びる。正月のために搗かれて間がないことがわかる。大晦日の夜、スーパーの生鮮食品は全部半額になっていた。スーパーの鮨の値段とは思えない新鮮で美味しい鮨で年を越す。

 

 米どころで育った。小学生の時の雑煮は餅が7つ。家族で40個、3が日で朝だけで120個の餅を消費していた。正月の餅は杵でついて、搗き立てはさと醤油(砂糖の語末母音は短母音になる)かきな粉で食べた。餅つき機を買ったのはいつ頃だったか、大家族で餅箱がいくつもいっぱいになり、はまぐりという普通の小さい餅を丸めるのは子供の仕事だった。床の間の大きなお鏡と、あちこちに飾る小さなお鏡は大人たちが大きな手で形作った。どこでもこんなにお餅を食べて、こんな風に正月を迎えているのだろうと思っていた。美味しい餅を得られるのはなんとラッキーなことなのか、今となってはわかる。

 

最近になって嗜好が変わったことがある。おだんごと豆が大好きになったこと。これはびっくりだった。何年前だっただろう、友人と食事をして「豆が好き」と言われて驚いたことがある。豆は別に嫌いではない、どちらかといえば好きだけど、積極的に好きな人がいるとは思わなかったから。とはいえ、その当時でも納豆は積極的に好きだったのだが、納豆は別な気持ちがある。豆が好きというのは、華やかなことが好きで明るくてちょっとミーハーなその友人が、クラスでもっとも地味で目立たなくてクラスが終わったら一番に忘れそうな人を好きだと告白したような気がした。こんな地味なのを好きな人がいる、よりにもよってこの明るい友人が。そして紆余曲折は何もなかったのに、気づいたら豆が好きになっていた。一つだけわかったことは、嗜好は変わるということである。

 

おだんごもこのカテゴリーに属す。だいたい、和菓子といえばわたし的には桜餅と水羊羹が双璧でぶっちぎりなのだが、おだんごは付いて来たら食べるけど自らお金を出して買おうとは決して思わないものだった。とはいえ買ってるじゃないかとSNSなんかを探されるとあるに違いないが、それはいわゆる映えのためであって、別におだんごが特にほしかった訳ではないと思う。しかるに今や、デパ地下の全国各地の名産のお菓子を少しずつ集めた悪魔のようなコーナーに行ってもまずおだんごを買ってしまう。ケーキやドーナツは明日地球上からなくなっても一向に痛痒を感じないがおだんごはそうはいかない。繰り返すが、嗜好は変わるということである。

 

発言する場がいくつかあるのは幸いなことだ。ここでは誰に読んでほしいのだろうと考える。まあ誰でもいいやと思う。誰でもいいし、好きでもない人もあとで好きになることがある。大好きなみなさんも、あまり好きではないみなさんも、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

あとで読まない話

いつものように他人のブクマページをスクロールしていたら、うっかりしてこの右側にできていた「あとで読む」というところクリックしてしまった。(↓これはその後適当に拾っただけでこの記事ではない。)

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そしたら、私のブックマークにその記事が無言ブクマされ、勝手に「あとで読む」とタグ付けされていた。ブクマするという行為は、今まで一応自分がそういう意思をもってそれらしき表示を押すとかそういうことをした場合にのみ起こっていたので、まさか他人のブクマを見てこけて触った瞬間に自分のブクマが増えるとは思わず、気にしないで進んでいたら後で自分のとこを見てびっくり。誰があとで読むちゅーた!こけて触っただけやないか。

 

それはオンライン授業関係かなんかの、ほっといても自分がブクマするかもしれない記事だったからよかったけれど、世の中には言及したくない記事もあれば、言及はしたいのだが自分の適当な都合で言及したいものもあり、そもそもブックマークというものは自分が自分の都合のみで好きに編集するところが醍醐味であって

勝手にあとで読ませるなよ、気分わるい。

ご覧のとおり、私は今までに一つも「あとで読む」タグを使っておらず、作っていない。私の人生は「あとで読む」に象徴される言行不一致の人生であるが、私は「あとで読む」と言って読まなかったことは一度たりともない。一度たりとも言っていないのだから。

 

慌てて消したけど、数分「あとで読む」が私のブクマとして上がっていたわけで、いきなり「あとで読む」を付されて直後に消されたその記事の筆者の方にはすみません、こけただけなんです。他意はありません。

 

「あとで読む」を愛用されている方にも別に他意はない。個人があとで読もうと思うのはよくあることで何の問題もないが、最初から「さあ、あとで読みなさい」って差し出すのってどうなの。「つまらないものですが」かよ。

 

1年半ぶりぐらいでこんなしょうもないもんを書いてもうた。あとで読まなくていいよ。

 

 

 

 

中学校女子生徒会長をめぐる私的回想

中学の女子生徒会長1割だけ…背景調査へ 小学校は均等:朝日新聞デジタル

 

1970年代前半の田舎町。

小学校の1年生、男女一人ずつで学級委員長は「学級委員長」と書いた名札をもらったんですね。それが、どの学年も男の子の方だけ学級委員長で、女の子の方は勝手に「副委員長」になってた。なんで女子が勝手に副委員長になるんだよっと小学校1年生なりに思ったの、今も覚えています。

 

1980年代前半

中学校で生徒会選挙がありました。本命はとある女子で、もうその子しかない状況だった。その子は、少なくともうちの田舎では、女子が生徒会長とかあり得ないと思われているような当時で、小学校時代には児童会長をしており、もうそれだけで別枠というか凄い子だった。しかし一応生徒会長選挙というのをやらにゃいかんので、対抗馬として先生から打診されました。そんなの誰も出たくないわけですよ。無投票でええやん。自民党が圧勝することがわかってるとこの、供託金没収されそうななんとか党ぐらいの勝率だし。

しかし小学校での「副委員長」体験から8年後の私はどうなっていたか。「会長は男の子がしたらええやん。」と、実に小学校中学校の8年間ですっかりジェンダーロールを内面化して、自ら会長選への出馬は断り、副会長ならってことでしぶしぶ対抗馬としての立候補を受けたのでした。落ちたけど。

 

1990年代後半

私は出身地とは別の過疎の田舎町で町職員をしていました。そこの町は広くて、生徒数が全校で10人とかの中学校がいくつか点在していました。どこの学校でも当たり前のように女子は生徒会長もやっていたし、小学校の児童会長もやっていた。私はもう大人であり、ああ時代は変わった、今の自分であればたとえ心の中だけでさえも「なんで女子が生徒会長」なんてことは思わないであろう、と思いつつ、役場の女子だけ制服というのは差別だからやめろと一人で戦ったりしていた。誰も共闘してくれる人はいなかったけれど、もう既にフェミニストとしての自我も、男性社会との絶え間ない戦いを通じて獲得していた。それでもしかし、女子の生徒会長を心のどこかで「10人しか生徒がいない」ことによる特殊事情と考えていたところがあったと思う。こういう田舎の方が、差別なんかしていられないほど人材が足りないから平等が進むことはある、ということは認識しつつはあった。

 

2010年代後半

さらに20年後の今。このニュースを聞いて最初に思ったのは「小学校だけでも均等になったんか!」という驚きだった。

 

後日談

中学の時、生徒会長をしていた友人はその後なんとなく普通の人になってしまった。この人を含め当時バリバリ活躍していた女性の友人たちにはまたバッシングもひどくて、そのせいかどうか傍から見れば穏やかな人生を選択した人が多い。もちろん「傍から見れば」穏やかな人生が実際どうなのかは知らないし、そんなのは個人の勝手であってどんな人生を送ろうが大きなお世話である。ただ私自身、名誉男性枠で生きることが多かった人生を振り返っても、勝手に周りの思惑を忖度してできたかもしれないことを投げ捨てていったこともあろうかと邪推するのである。フェミニストとしては、この人よりもおそらく自分のほうが尖鋭化したであろう。それでも面倒がって戦わなくなってしまった。それもそれで仕方のないところもあるんだけれど。

 

抑圧されている側が戦わねばならないという理不尽はいつまでもなくならない。