私たちはフィルターではない

この他人事みたいな記事の話

支持者の男性9人に「かわいいね」「ありがとうね」と迎えられ、ワイン片手に選挙の情勢を語る

これ、事実だったら36歳の衆議院議員に「かわいいね」とか言ってる支持者がかなりどうしようもないと思うのだが、記者は現場にいてそれを見たのか?適当に作ったのなら支持者は怒っていいレベルで、導入としてひどい。本当にこう言ったのであれば議員は自分の支持基盤をまずどうにかすべきで酒以前の問題だと思う。

夜の活動は、出産や育児との両立の問題を生む。ほかにも、セクハラの温床にもなる。複数の女性議員が「当選する前は、飲み会でセクハラされても文句は言えなかった」。少数派の女性というフィルターを通すと、政策本位と対極にある日本の政治土壌が見える。

我々はフィルターではない。あなたたちが見えていない『日本の政治土壌』を見えるようにするための道具ではない。「女性というフィルター」を通さない(なんでこんな間違いしてるんだ)とこんな目の前で何十年も続いてきた政治土壌が見えないならジャーナリストなど廃業してはどうか。出産や育児を女性の問題だとしか考えていないから「フィルター」がいるのだ。男性議員の育児に全く頓着せずに、女性議員だけの問題みたいにとりあげて、しかも考える主体は男性だという前提があるから「女性というフィルター」とかシレっと他人事みたいにいえるのだ。そんなもん通さずに自分の目で物事を見たらどうなのか。

あなたがいう「飲み会文化」を築いていたのは基本的に男性社会だけれど、36歳の女性議員だって好きで行っている訳ではないかもしらんが議員である以上は、それを担っている側の社会的責任もある。女性だからいやいや付き合わされているだけではない。女性であろうと議員であれば自ら困った社会は変えていく立場にあり、支持者にはお願いされる側の立場にいる。オッサンにつきあわされる気の毒な女性とは限らない。何がいいたいかというと、女性が大変だし気の毒だし家事と育児にも影響あるから変えましょうじゃないだろう、ということ。「飲み会文化」が問題なら、いちいち少数派のフィルターがどうのとメタの視点を気取らずに、みずから正面から切り込んでいけばよいではないか。女性をダシにするな。

「妻が選挙や地元の活動を支えている男性をうらやましいと思うか」

なんやねん、この設問は。性的マイノリティのことなんかなんも考えてへんのもまるわかり。

そもそも「飲み会文化」を前提に女性もそれに適合できるようにパートナーの意識を変えるべきなのか。飲み会をまわってハシゴしないといけない状態を「文化」とかいってる新聞記者の意識を真っ先に変えるほうが先ではないのか。私的な場では日付が変わるまで飲み歩こうが路上でキスしようが他人がとやかくいうことではない。しかし政策や『ポストにもつながる』話がそういう場でまわっていることを「文化」として肯定する、こういうメディアが『少数派の女性というフィルターを通すと、政策本位と対極にある日本の政治土壌が見える』とか片腹痛いわ。

念のために言っておくが「フィルターを通す」という慣用句を知らない訳ではないよ。いちいちフィルター扱いされるのが不愉快ではあるけどね。通さなくても目の前にはっきりあるんだから見えるだろと言っている。自分の言葉で語れよと言っている。繰り返す。私たちはあなたが考えるためのフィルターではない。自分の社会のことは自分で考えていただきたい。

毀誉褒貶はその人のもの

この件に関連して他人の発言などを批判したり言及したりする時の自分のスタンスについて現時点での覚え書きです。

例えば橋下徹氏とか山谷えり子氏に対して、とても看過できないような言説が投げつけられた時、それに対して批判的なことを書くと、それへの再反論は歓迎なんだけど、単なる感情的な反発みたいなブクマなんかも結構くる。それは日頃自分があまり政治的な話題などに言及しないので、日頃問題意識ももってないで、橋下氏や山谷氏の言動を批判もしたことない奴が何いってんだこの野郎(野郎じゃないけど)みたいな反感もあるのではないかと、これは単なる推測だが、思う。

私は特に必要がない限り、たとえば橋下氏に対する差別的な言辞を批判する場合に「私は反橋下派ですが」などとは書かない。橋下氏の政策に積極的に賛同したことは一度もないが(念のため、私が知らないだけでよい政策もあることを否定するものではない)それと彼に対する差別的な言辞が許容されるかは全く別問題であってそれを論じる時にいちいち言及する必要はないと思っているから。同様に「私は日頃の菊池誠氏の発言や行動を基本的に支持するもので、今回のツイートが出てきた経緯や意図についても文脈を把握しているつもりですが」などとはいちいち言わない。言わなくてもわかっている人はわかっているし、私のことなんか知らない人には、むしろ「そういう前提」をもたない裸の発言を見てもらった方が先入観なしに発言そのものを見てもらえるから。

という訳で、今回の件に関しては、まず明らかに日頃のフクシマとかいうなという主張とフクシマ人というタグは相容れないと思うし、皮肉や揶揄や冗談やネタだとはっきりわかるとしてももともとの差別的な言辞に含まれる不愉快さが軽減される訳ではない、少なくとも私には非常に不愉快だと最初の段階で思った。さらに「意図はわかるけど不愉快だ」という指摘がかなり早い時期から入っているのに「わからんお前らがバカだ」みたいな(菊池さん自身ではない)発言に対しては、そんなことを言われる筋合いはないといわざるを得ない。反論や指摘が寄せられた時に相手がわかっていない前提に立ってまず貶めるというのはどうなの?という感想を抱くのは、先に例示した橋下氏や山谷氏に対する言説批判とも重なる。この件についてのみの個人的な感想を付け加えておくと、こういうのを「大喜利」とかいわれるのも不愉快です。面白くないし。まあそれは、別に一般論をいっているつもりはない。わしが嫌だというだけです。

で、タイトルの一般論について、私はたとえば菊池氏が「迂闊」だとか「脇が甘い」とかの理由でとやかくいうつもりはない。というかそんなことは知ったことではない。大学教員として非常に影響力があるという点の自覚を持てとかバッシングしてくる人に口実を与えるなとかは第三者の勝手な希望であってそのとおりに振舞う必要なんかない、勝手にしていただければよいと思っている。そうしてその言動を注視して支持できると思えばするしできないと思えばしない。ある発言については支持できるが別の発言は支持できないこともあるのが当然で是々非々で評価するしかない。勿論一般論だと断っているとおり、菊池さんに限った話ではなく自分はそういうふうに考えて記事を書いたりブクマをしたりしている。

例えば、罵倒表現を私は好まないし、それを多用する人の評価は高くない。それはどんなにまともなことを言っていても言ってる本人がバカに見えるのと説得力を下げる働きしかしないから。そして不愉快だから。でも別に批判はしない。その人が勝手に自分がバカに見える道を選び、勝手に説得力を下げる道を選び、人を不愉快にさせる道を選んでそれでも言いたいんだろうから勝手に言ってろと思うのみである。言ってる内容自体がまともでその論敵の方が言葉遣いは綺麗でも言ってることがめちゃくちゃな場合は言説自体は評価する、つまり私は言葉遣いは人に対する評価で言説の評価とは二本立てでやっているが、まあリンクしていることもある。方針として人に対する評価はあまり表に出さないことにしている。「お気に入り」を一人も登録しないのもそういう理由による。

そういう自分は罵倒しないのかといわれればそんなことはない。レッテル貼りも嫌いだけれど、揶揄目的でちょっとこれはどうなの?という発言をすることもある。但し、それに対する批判や「あ、この人こういうことを言う人なんだ」的な幻滅を与えるとかそういうことは引き受ける。自分の評価を下げるリスクを犯しても罵倒したい時に罵倒しないとは言わないしするなとも言わない。それで友人に去られたらそれまでのことだ。もとより聖人君子ではない。失言のない人などいないと思うしその毀誉褒貶を自分で引き受ける気さえあるならば、問題外の誹謗中傷を除けば何を言ってもよいと思っている。

ただ個人的な希望はある。「フクシマ」という言い方を今まで無自覚に用いてきた人こそ誹謗中傷してきたではないかという実例を私も見てきた。それと外からは同じにしか見えないことを今まで批判してきた人がするというのは、あくまで個人的に残念でならないと思う。

心なき身にもあはれは知られけり(懇親会雑感)

講演会の後の懇親会で新人は自己紹介をさせられる。研究室に新しく配属された学部の3年生が「今まであんまり勉強してなかったので今日の発表もポカーンという感じでした」と次々言うのを聞きながら「これ、私が同じこというたら怒られるやろなあ...」とぼんやり思う、私はD1。(身元ばれした時にために今から言い訳しておきますがポカーンとしてませんよ。冗談ですよ。)閑話休題

初めてのところに入っていくことに抵抗はない。パーティーやなんかは苦手だけれど、まあ浮いたってどうということもない。いつもどおりに偏屈に生きられればいいよと思って新しい世界に入ってみたらいきなりその偏屈バリアを突き破られて改心を迫られている。

一つ目は苦手なはずの懇親会で、もうごめんなさい、私が悪かったです、といわざるを得ないところまで温かくサポーティブな励ましと刺激を得たこと。斯道の殉教者たち、ではなくて先達と普通にしゃべるだけ、言葉をかけてもらうだけで的確にこっちのやる気が引き出されてしまう。あっさり陥落してしまった。目の前に本当にやりたいことがあり、それを支えてくれる人がいて、あとはやるだけという時に私は偏屈でいる理由を失う。だからってフレンドリーなさわやかな人になるのかといえばそんなことは全くない訳で相変わらず愛想も悪く大勢の集まりの中では浮いてないと落ち着かないのだが、浮こうが沈もうが、真摯な研究者達の前に自分のはったりや衒いが通用する訳がないことがあまりにも明らかなのである。人生も折り返しを過ぎていまだにこんなことをしているアホな人に温かい言葉をかけてくれる人々はおっさん/おばさんの形をした神様ではないか。心無き身もその有難さに日頃の傲慢を忘れ頭を垂れる。

二つ目、周りのレベルに追いついていない。編入したので周りの人は私のアホを誰も知らず(先生達には入試でばれているが)漠然と、まあそこそこやれる人が入ってきたんだろうと思っているぽい。いくら私がアホは晒して叩いてもらう方針で叩かれるのが好き(今回については文字通りの意味ではない)といっても、これがまもなく演習であたって修論を発表する日にばれる、その前にもばれるかも知らんが、というのには少々覚悟がいる。そしてばれるかどうかによらず全面的にどこからどこまでもやり直しつつ前に進むのに全力を尽くさざるを得ない。

そのうち泣きが入るというかもう泣いていて涙の乾くひまもない。しんどいよ、しくしくしく。。。

なんとかやっています。

長い目で見た評判は(送別会雑感)

身辺雑記の3つ目はいよいよ退職の日も近づいて送別会である。

さすがにリアルSM(全然ハードじゃなくてソフトもソフトも激軽でしかも全然具体的な話ではなくて、つまりS/M的に刺激になるような話は皆無だったのだが)の話を職場の飲み会で学生(および先生)達にしたのはKYというか刺激が強すぎたのだろうか。秘書の仕事をやめるということで、送別会でいただいた寄せ書きは「飲み会での話が強烈過ぎて忘れられません」みたいなコメントのオンパレードで、一応世界でも一線級の多忙な研究者の裏方として日々研究室の円滑な運営に尽力していたのに、この研究室での私の位置づけは「飲み会でSMの話をした秘書」ということになっているのがよくわかった。こんなことを書くと職場で特定されるかも知れないが辞めるからいいよ。これから行く方で特定される可能性は現状低いと思うがまあリアルの方が恥ずかしい人生であることには変わりがないので、無難なことばかり書いているこのブログが特定されたところでダメージを受けるほどもとが高いはずもないから大丈夫である。ついでにいうとその追いコンの主役は修了する学生達と私だったのだが、直属の上司である教授からは最初の挨拶で学生に対する奨励はあったけれど私のことは完全に忘れられていて一言の挨拶もなかったのだった。ふだんからフレンドリーではなく仕事以外の会話は一切ない上司と部下だったのだが、私にはそれが非常に快適で、逆に仕事さえしていれば何も言われないので好き勝手に自分のペースで仕事もできて教授とは会話は何もないけれどうまくやってきたつもりである。私は、どちらかといえば、出張に行くたびにお土産を買ってきてくれたりシンポジウムなんかでは途中で時間を取って裏方の秘書に花束をくれたりするようなタイプの先生よりも、優しい言葉をかけられたことなんか在職中一度もなかった教授の方がやりやすかった。最後に忘れられて挨拶も何もなかったというのもこの先生と私とのmatter-of-factな関係を象徴するような「らしい」幕切れでよかったなと思っている。

寄せ書きには「是非ブログを作っていただきたい」と書いてきた学生もいた。事程左様に自分の実態と他人の目に映っている自分というのは全然違うわけで、他人の目を気にして生きていても仕方がない。自分の想像の及ばないところで他人は勝手に自分を判断している。「飲み会で面白い人」というのは彼らなりの婉曲表現だと思うが、五十近くなってそのキャラでいいのかというのはともかく、人間関係についてもその他のあらゆることについても不器用で端的に言ってアホな自分をとことん晒すことはなく、まあまあ無難な仮面をかぶってここも終われたなというところに少しほっとしている。

私のスピーチは、酔っ払っていたせいか非常に好評だった。しかし酔っ払いながらウケ狙いに走っていたようでどうでもいいネタばかりをしゃべってしまった。本当はこういうことを言うつもりだったのである。

大学院の本命は受かったのだが併願していた別の大学は落ちた。これは落ちたほうを実力と弁えるべきだろう。その面接でボコボコにされた、自分が立ち往生した指摘の数々を肝に銘じて、今後の人生の最大の敵−自分のアホ−と戦っていきたい。

Long-term reputation would be built not on the occasional inspired goal, but on hours of dedicated research, combined with good judgement.
長い目で見た評判というものは、たまたまのひらめきによる成功ではなく、適切な判断に沿ったひたむきな調査研究によって築かれるものである。

Jeffrey Archer

ということで、次に行くところでは「飲み会で面白い人」のような評判を築くようなことはないように、とにかくはったりは全部やめて、まじめな努力家のポジションを獲得すべく精進を重ねたいと思う。

かばん一つで死にたい(引越し雑感)

いや死にたくありませんよ。今は。でももし死ぬ時が来たらその時はかばん一つで死にたい。これは昔とある年配の女性が言っていたのに感化されてかくありたいと思い続けて10年以上になるのだが、なんなんだよ、このダンボールの山は。という訳でまた引越しなのである。またというのは引越しが好きだからで、引越すこと自体は大好きなのだが、引越し作業はめんどくさいだけで別に好きではない、というかうんざりしてブログなど書き始めるわけである。

なんでこんなに引越しが好きなのか考えてみて、訣別ごっこが好きなのだと思い当たった。自分の執着から離れる。もしくは嫌なものから逃げ出す。物理的に離れてしまえば精神的にも心機一転したような気がするではないか。新たな土地で新たにやり直そうではないか。そしてやり直す。2年後ぐらいに、また新しいところからも離れたくなる。そこで押入れに2年間封印していたダンボールを空けてみる。訣別したはずの過去が出てくる出てくる。その中から少しだけ、もう傷が癒えたものなんかをちょこっと捨てる。できた隙間に新しく執着した物を詰めてまた封印する。また空ける、また少し捨てる。封印する。空ける、詰める、空ける、封印する。その繰り返し。

親元を離れた18歳からアラフィフの今まで延々とそんなことを繰り返している人間がかばん一つで死ねるはずがあるだろうか。ともあれ、転職が機会としては多いのだが、海外に出た時はどうしても自分が執着してしまう振られた相手から訣別したいという思いもあった。そしてそれは成功したのだが、Facebookというろくでもない物のせいでまたつきあいが復活してしまった。ただ、もう今はその人に対する執着はない。これは引越しではなくて時が解決してくれたのである。

一度海外に出たのは年賀状を全部やめるとかもう過去の人間関係はオールクリアーでいいやと思い切る契機になった。実際には年賀状はやめられたが人間関係はオールクリアーどころかまたしてもFacebookで中途半端に大復活してしまい、前よりもややこしいことになっている。これを見るに、私は結局のところ訣別なんかしたい訳ではなくて訣別した振りをするのが好きなのである。内心未練たらたらで構ってほしいのである。ただのアホとしか思えない。

多くはない蔵書も折に触れて処分しているのに80年代に傾倒していた本も90年代に好きだったことが今となっては恥ずかしい本も所を変えただけでまだ本棚に並んでいる。自分の人生の歴史というよりはほとんど黒歴史である。しかしまあ、無理して訣別しなくてもいいか、とそれは数え切れないぐらい引越しを繰り返して今日になって初めて思ったことである。いずれは否応なく人生の全てと訣別しなくてはならない日が来るのだから。

かばん一つで死にたい。引越しのたびに少しずつ無駄な抵抗を続けて、ある日力尽きて倒れるのが現実的な解かも知れない。しかしこんなことを書いている間に一つでもダンボールを梱包しようなどという気は皆無である。実際にはダンボールに埋もれて死ぬに違いないと思う。

法事いまむかし、とささやかな報告

四十軒に満たない小さな集落の半分ぐらいは「親戚」である。そのうちイトコハトコのつながりがわかるのは二軒ほど。後は単に苗字が同じだけとか江戸時代ぐらいに親同士が兄弟だったとかそういうレベルである。法事にはその親戚全部に来ていただいてお勤めの後は供養の膳まで出すのが子どもの頃の慣例だった。玄関から上がった口の間の隣は必ず仏間で、二部屋をぶちぬいて祭りごとをするために、この家の構造は絶対外せない。結婚式も葬式も家でやっていた。だから家を新築しようと思った当時の若夫婦、たとえばうちの両親などは少し洋風の造りにしてみたいと思っても絶対的な権力を持つ年寄りに阻まれてどこの家も同じような田の字型の間取りの日本家屋にせざるを得なかった。せいぜい応接間とか子ども部屋が洋室でおまけみたいにつけてある程度で、余談になるが今私が畳のある部屋に執着しているのは間違いなくこんな生育環境による。私にとって部屋というのは和室なのである。

そんな二部屋ぶち抜きの広い和室で行われる法事は寒くて、暖房器具といえば火鉢だった。灯油のストーブも一つ二つはあったがいくつもいくつもの火鉢が、居並ぶ老人達の間に、たくさんの炭が埋め込まれて並べられて、それはそれで手をかざせば結構温かいものではあった。お勤めの後は、何しろ男尊女卑の昔の田舎なので男達は酒盛りになり、女達は学校か公民館にあるような鍋でおつゆを炊いたり煮豆だの漬物だのを持ち寄り、主なご馳走は仕出し屋から取るのだがそれプラス酒だの副菜だのの接待でてんやわんやになるのだった。

それから四十年。田舎の集落も時代の波に洗われて、祭りごとは簡略化され今や法事には本当の親戚しか来なくていいのである。供養の膳もお勤めが終わったらご院主さん(坊さん)も交えて料亭からの迎えのバスに乗って食べに行く。暖房は火鉢ではなくなんの仕組みだか知らないがぬくぬくの部屋で法事参りが寒くて風邪を引くようなことはない。なんとまあ、楽ちんになったものよと感慨深いのではあるが、それでも十五、六人の集まりごとであればいかに気心知れた身内ばかりとはいえそれなりに大変である。そんな中で、私は田舎を出て行ってしまって都会(実家的には)で自由気ままなシングルライフを謳歌している極楽トンボなのだが、この家に帰ると現役世代まっさかりのアラフィフで今や高齢で認知症などもあって弱っている両親に代わって法事を切り盛りしなければならない当主なのだった。

十三回忌を迎えた祖母が彼の岸に渡った時にはまだ両親もその兄弟姉妹も元気だったけれど、今回集まってくれたのは八十代と七十代の夫婦が二組ずつ、うちの両親を合わせて五組で、集まってくれてるほうに何があっても全然おかしくない年恰好である。ご院主さんがなんだか有難いお経を上げてくれて、阿弥陀経だの正信偈だのは全員が唱和する。この手順は四十年経っても変わらない。アルゴリズムのように田舎の人は全ての手順を滑らかにこなしていくので「当主」と言っても別に出る幕はないのだが、最後の挨拶だけはそれらしくやらないといけない。坊さんが着替え終わる(仏壇の前で雑談をしながら袈裟を脱いで着替えるのである)のが挨拶のタイミングである。下座の方から扇を持って正座のまましずしずと進み出て、ご院主さんにお礼を述べ、続けてお参りの皆様にもお礼を申し上げて、まずは親族一同が無病とはいえないものの息災で十三回忌のお勤めができたことに感謝する。ささやかながら供養の膳も用意してございます。バスがお迎えに参っておりますのでご面倒でもお運びくださいともっともらしいことが勝手に口から出るのは都会ではコミュニケーションが苦手で友達も少ない私も田舎の子なので勝手にできてしまうのである。年齢からいえばそんなのはできて当たり前なのだがまともな社会人とはとても胸を張ってはいえない生活で実は今月末にまた仕事を辞めるのだとか余計なことは言わなくていい。

しかし余計なことのほうがメインであるネットでは報告しておこう。春から大学院生になって言語学を勉強します。研究テーマよりも自分のアホとの戦いがまず先にあってどこまでやっていけるのかはわからないけれど、バイトで生きていくことになるのだけれど、もう二度とブレずにこの道を行きたい。ネットで出会った人やら記事やらにも励まされての再出発です。年齢は関係ないと、これは本当に心から思っている。それで潰れるぐらいなら潰れたらよいのよ。プロを目指すのに、つい先日も言語学についての素人ぽい記事を上げたばかりですが恥ずかしがらずに晒していこうと思っています。皆様今後ともどうかご指導ご鞭撻をどうぞよろしくお願い申し上げます。

CiNii 論文 - 疑似自動詞の派生について--「イチゴが売っている」という表現] へのメタブクマの続き

訂正歌丸さんのくだり、失礼すぎるし面白くないしなんでこんなこと書いたのかわかりません。お詫びして撤回します。

全く2回も続けて「〜へのブクマの続き」なんて記事を上げるぐらいなら最初からとっととエントリを上げろよ、と思いつつ、これはこの記事 へのメタブクマの続きです。下記のrosechildの発言が当該のブクマでその下のdlitさんの発言はメタメタブクマからの引用です。

rosechild  激おこの時も参照したブログですがこの2コマ目http://carmine-appice.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-dbc4.htmlが気になる用例がやってると思います。

dlit  id:rosechild 実はこの論文を書いてる時も「<映画/番組>がやっている」が同種なのかどうか検討はしたのですが、気になることがあって別扱いにしたのでした。でも昔過ぎて理由が思い出せません…

まず私がメタブクマに取り上げた『この特定のブログ記事』を気になる用例としたのは「番組がやっている」という言い方一般の話ではなくて、問題の登場人物の発言がテイル形になっていないという点からです。「用例がやってる」はなんかアホなことを言いたくて書きました。言及先は、問題の「やっている」がもしdlitさんのいうところの疑似自動詞に該当するとしたら、当該論文(以下いちご論文)の2.2で言っている「スル形の欠落」の反例になるかと思います。そこで
問題1.該当するかどうかを判断する前にこの表現は多くの人に受け入れ可能なのか
問題2.該当しないのであればこれはなんなのか
問題3.該当するのであれば、映画・番組にとどまらず「〜がやっている」について色んな問題が出てくる
と、次々に気になる点が出てきます。

まず問題のおばあちゃんの発言は
「今日はね、マツジュンと大野君が外国を旅行した時の様子がやったけど、見てた?」
というものです。これねえ。私は迷わずアスタリスクつけます。非文です。わたし的には。しかし、身近に介護を要する年寄りがいることもあって私は言及先のブログの愛読者なのですが、ブログ主さんは「今日は嵐がやってますよ」みたいのはよく使われる。すなわちdlitさんのいう「番組/映画がやっている」ですね。私もこれなら許容度が上がる。つまりアスタリスクはどこから来たかというとテイル形の欠落から来ているぽくて、ということは私の直観はいちご論文を支持しているぽい、かつざっと検索してみてもテイル形でない形はひっかからないのだが、「マツジュンと〜」みたいな長い主語は受け入れにくいけどたとえばこれが「笑点」だったらいけるかもしれない。「(先週までは歌丸さんが死んで特別番組だったけど)今日は笑点がやったけど、見てた?」厳しいけどさっきのよりはありな気がする。しかし、引用した表現はブログ主さん的には完全にありだということは日頃そのブログを読んでいるからわかるのだけど、現時点では「気になる」までいかないほとんど受け入れ不可能で終わってもよい話かもしれません。とすると話がここで終わってしまうので、問一については今は考慮する必要がないかもしれないが少なくとも一例はあったよということで次にいきます。

問い2以降は、1がそもそも受け入れ不可能であれば考慮する必要がないので、仕方ないので「やった」を「やってた」に読み替える、すなわちいちご論文の2.2はやっぱり正しい(=テイル形必須)という前提でいきたいと思います。そうすると、ここで「番組/映画がやっている」という話一般の話、になる訳です。

「やる」はそもそも多義で自動詞の用法もあるみたいだ。とすると「〜がやっている」の中にも、aそもそも自動詞、b擬似自動詞があるのか?擬似自動詞であるためには動作主を主語にとる他動詞との対応が見られるはずだ。ちょっと自動詞でも他動詞でもいいので「〜(が)やっている」をあげてみて、意味役割を見たりいちご論文に即したテストなどをやってみよう。
(1)「最近どう?」「なんとかやってるよ」
なにこれ。ガ格がとれないぽい?「??わざとなんとかやってるよ」「*大阪になんとかやってるよ」「私はなんとかやってるよ」ならいけるけど「*私がなんとかやってるよ」ということで話者が対象ではあるのだろうけどなんでガ格ダメなの?どこで話がそれた?
(2)「あれ、今日平日だっけ?役所がやってる」
これは役所は対象ですね。で、この場合の「やる」は非対格動詞でいいの?それとも「役所が(業務を)やっている」?「役所(の中の人)が(業務を)やっている」と「役所がやっている」では意味違うよね。「*役所がわざとやっている」「?京都に役所がやっている」「*誰かが役所をやっている。」
(3)「映画館がやってる」vs「映画がやってる」
「映画館がやってる」は上の「役所がやってる」と同じか。「*映画館をやってる」「映画をやってる」。「映画がやってる」は、やっと擬似自動詞ぽい、でもdlitさんはなんか忘れたけど気になることがあって別扱いにされた例。
(4)「嵐が(映画を)やってる」「嵐が(出る番組をテレビで)やってる」

ということで混乱してきたので次までの宿題。1.いちご論文の論旨に即して(3)(4)の例を樹形図を描いて違いを示せ。2.「やる」の用例で最初から自動詞と考えられるものを示し、対応する他動詞があって擬似自動詞と考えられるものと対比せよ。いちご論文の論旨に沿ってそれらが統語的に明確に区別できるかどうかを検証せよ。

なんかまた自分でもはっきりわかっていないことにいらん口出しをして身動きとれなくなる方向へ向かっているのですがなんとなくその辺が気になっているような気がするような感じです。宿題はいつかするかもしれません。とりあえず今日のところはこのぐらいで許してください。