「汚い」ことばのリアリティー

さて、そろそろほとぼりが冷めたので(誰も最初からほとぼってはいないが)ことばカフェの記事の続きを書こう。と思ったら老眼が進んで1時間以上かけて書いた記事を「公開する」つもりで「削除する」を押してしまった。それはともかく、

大阪弁という言葉が関西弁という意味で使われると複雑な気持ちになる。自身の帰属する文化がそのカバータームでくくられる概念に含まれていながらそれを体現していない疎外感とでもいうべきか。あるいは首都圏の人が「日本は夏暑いし冬寒いし」といった時に反射的に「北海道や沖縄の人はあんまりそういうこと言わないよね」と反発する(私が。実際はそういうことを言う北海道人だっているかもしれないが)のに近いかもしれない。滋賀や和歌山や奈良の山奥あたりの方言は関西弁ではあっても大阪弁ではないし、夏あまり暑くなかったり冬寒くない地域だって日本にはある訳だが、しかし山陰や四国や東北ではなくて人口の多い所が「日本」を代表し話者の多い地域が「関西」を代表してしまうのはまあやむを得ないといえばやむを得ない。閑話休題

ことばカフェで専門家やセミプロや素人や野次馬が入り混じって方言について熱くくっちゃべった時、同じテーブルになった人が特定の地域名を挙げて「○○弁が大阪弁だと思われているんですよ。絶対違う!大阪弁はあんなに汚くない!」と言った。何をもって綺麗とか汚いとかいえるのか、絶対的な基準はないということはその人もたぶん頭ではわかっている。優勢な言語の話者がマイナーなバラエティー(変種)について一方的に「汚い」と断じる権利はないということも理解してはいる。頭では。

大前提として言語に優劣はないことを認めよう。しかしそれを認めたからといってその人がとある地域の大阪弁のカテゴリーに入ることばを「汚い」と思ってしまう、こっちの大阪弁のほうがもっときれいだと感じてしまうのが現実であることに変わりはない。

できるだけ現実に即して現実を見てみると、まず自身の方言を大切にしたい、語り伝えたいと言っている自分自身が決して生まれ育った地域のことばをそのまま受け継いでいる訳ではなく、聞き覚えたことばの中から注意深く、かっこ悪い、古臭い、ダサい、もろもろのことばを排斥し自分の「美意識」に適ったものだけを「受け継いで」いることに気づく。かつその知らない間に刷り込まれた美意識、あるいは偏見を他者と共有できると無邪気に前提しているところが度し難い。つまり、いわゆる大阪弁に属する○○弁を極めてナチュラルに貶めて「汚い」と断じることが他の「大阪弁」ないし「関西弁」の話者にも支持されると信じているらしきその人を(言語学関係者の多い席上でそういうことを言う人はかなり新鮮に感じる、というのも偏見であるが)内心で「何をアホなことを」と非難しつつ、その非難はそっくりそのまま自分に返ってくるブーメランであること認めざるを得ないのである。もっと大きな話をすれば自分の認識や理想とは裏腹に生身の人間が抱いてしまう差別意識というような話につながっていくのかも知れないが、とりあえず私の引き出しは貧弱ですぐに出せる答えはない。社会言語学や言語政策の分野ではもっとちゃんとした知見があるだろうと思うが勉強不足で何もいえない。ただ、そうやってあることばを綺麗と思い、別のことばを汚いと断じてしまう現実をないことにはできない、少なくともあることを認めてそこから出発するしかないとは思う。

一方でたとえば小学生の甥は、学校へ行ってはせっせと「乱暴な」ことばをかっこいいと思って学習してくる。市民権を得て残っていくのは必ずしも「美しい」ことばとは限らない。「きれいな」ことばも「汚い」ことばも平等ですよ、等しく残しましょうとか僭越なことを考えずとも、残るものは勝手に残っていくし消えるものはどうしたって消えていく。私の生まれ育った地域は言語よりも仏教文化の点で非常に貴重なさまざまな風習を今に伝えていると思うのだが、たとえば私はそれを後世に引き継ぐ気なぞさらにないしもしそこへ研究者がやってきて「こんな貴重な伝統をぜひとも守り伝えて欲しい」と言われても知るか、としか思わないだろう。いや、残して欲しいですよ、私じゃない人が。と、自分の文化を見ている人間がよその貴重な言語を残しましょうとか言っていいのか、正直わからない。

主催者が前提にしていた訳ではなく、オープンに話し合うという場であったのだが、ことばカフェなどというのはどうしても「方言は残そう」という流れになる。みんな実際に残したい思っているのはたぶん間違いない。水をかけるようなことを言っていた田窪先生だってご自身は貴重な方言の研究をされている訳で、単に歴史に流されていくのみではなくて人為的にいろんなことができるのも確かだろう。私自身にとっては「○○弁は汚い!大阪弁と一緒にせんといて欲しい!」と叫んでいた人を自分に重ねて、私が私の方言を守ろうとすること、大切に思うということは、具体的にどういうことなのか、実際のところ「自分の方言」をどれだけ相対化しているのか、何を守りたいのか何を捨てたいのか、意識的にあるいは無意識に何を美しく思い何を汚いと断じているのか、そんなことを考える機会を得た。すぐに答えの出る問題ではなく答えなどない類の話なのかも知れない。前回私は「好きなことばでしゃべっていきたい」と書いた。それが一つの答えでもあるのだが、それだけではない。先の人生で楽しみに考え続けたいと思う。