「半自叙伝・無名作家の日記」他

放置しているブログをのぞいてみて、アクセス解析を見ると思ったより数字がある。あらまだ読んでくれてる人も結構いるのねと思ってよく見るとほぼ全員が「羞$恥&プレ¥イ」で検索かけてきた人なのだった。羞〇恥×プ#レイで来てもここには何もありませんよ。私が個人的に恥晒ししてるのはプレイじゃないし。

閑話休題。なんで放置してるブログを思い出したかというと、はてなダイアリープラス継続通知たらいうのが来たからである。とりあえず既に払ってしまった金が切れるまでは使おう、ということで今のうちに本の紹介でもしようと思った次第。(例のブクマの「改良」によってはてなに金を払う気がしなくなったので、あの状態のままなら有料サービスは既に払った分が切れた時点で解約する。)

ということで、
半自叙伝・無名作家の日記 他四篇 (岩波文庫)

菊池寛の「半自叙伝」である。小学生の時にポプラ社の子供向けのシリーズで初めて読んだのだが、爾来40代半ばの今に到るまで面白かった当時のままの気持ちが持続しているのはたぶんこれと、あとこれだけだと思う。

母のない子と子のない母と (新潮文庫 つ 2-2)
↑今プレビューで見たらこれじゃなんの本かわからないのか。壷井栄「母のない子と子のない母と」です。子どもの時読んで今読んでも面白い本というのは他にもいくらもあるが、大人になって視点が変わっても面白いとかではなくて「当時のままの気持ちが持続」を言いたい訳である。

「半自叙伝」で私は百舌狩りという遊びを知った。鳥の百舌を狩るのだが鳥だらけ百舌だらけの農村で育った私でも時代的に「とりもち」を使って鳥を狩るなんて遊びはしたことも見たこともない。しかし囮の百舌を仕掛けて物陰に潜んだ菊池少年(といってもあのオッサン顔しか思い浮かばない訳だが)が今にも家の裏に潜んでいる気がして、貧しい少年時代の導入部から自由奔放な青年時代、文壇に出て成功するまでのあれこれを一気に読み通した。(余談であるが、ポプラ社の子ども版には戦後付け加えられた部分は載っていなかった。戦争協力者として公職追放された頃に書かれたもので自分はそもそも自由主義者だったなど言い訳が興味深い。)

菊池が徹底したリアリストであることは、例えばこんな記述から伺える。

 わたしが、考えついたことは、バアナード・ショオが金のある未亡人と結婚したように、財力のある婦人と結婚することだった。(中略)
 しかし、その中で、私は一番条件のよい現在の妻を選んだ。一定の金額を月々送金してくれる上、将来まとまってある金額を呉れると云う約束だった。(125-6ページ)

身も蓋もない。今の感覚からすればふざけた話だが一皮めくれば婚活だってその辺の恋愛だって似たようなものだろう。自身の内部で起きていることを記述する観察眼は冷静でそういう人の自伝は大概面白い。

文庫本では標記のほかに、京大で師事した(そして創作が認められずに失意のうちに卒業し、菊池の卒業後まもなく急逝した)上田敏や自殺した友人の芥川龍之介についての記述が興味深い。例えば芥川については

 作家としての彼が、文学史的に如何なる位置を占めるかは、公平なる第三者の判断に委(まか)すとして、僕などでも次ぎのことは云えると思う。彼の如き高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統及び趣味と欧洲の学問趣味とを一心に備えた意味に於て、過渡期の日本に於ける代表的な作家だろう。我々の次ぎの時代に於ては、和漢の正当な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから。(257ページ)

とある。日本文学史に全然明るくない私にはこの記述の妥当性は判断できないが、次の次の次の次ぐらいの時代かと思われる今、「和漢の正当な伝統と趣味とが文芸に現われることなど」はおよそ考えにくいのはあながち私が不勉強なためばかりでもないだろう。

さて、単に「この本面白かった」といいたいだけのために、有料サービスが残っている間は時々これをやろうと思う。なお、壷井氏の本については、「二十四の瞳」と並んで手放せない本なのだが子供向けだし絶版らしいので面白いですよというに留めたい。