ちょちょんまげさんへの私信

オーストラリアの地方都市で既に滅びてしまったアボリジナルの現地の言葉を復興させようというプロジェクトに参加させてもらったことがある。

こんなことをして一体なんのメリットがあるのか。特に本人達でなく周囲の主流の白人やマジョリティにとってのメリットを明らかにすることは、人権感覚に疎い人々も多い行政や企業などからスポンサーを得るためにも必要なことだった。

すみません。ここまで書いて飲んじゃったのは、全てえびのあんかけをかけた湯豆腐が異様にうまいのが悪いんです。畏友(ずっと年上の人生の先輩に友は失礼かもしれませんが、年齢差に関わらずそう呼ばせていただくのを歓迎していただけるものと考えて)ちょちょんまげさんに公開の形の私信でお伝えしたいことがあって書き始めたのですが、酔っ払ってしまって書き終えられない可能性が出てきました。今日書き終えられないと得意の放置プレイ(ほんとに私が得意なのは放置される側なんだけど)に走ることはほぼ確実であり、そうするとタイミングを逃して書けなくなるのは火を見るよりも明らかなので、ここで方針を転換して、まともなエントリを上げるよりも、とにかく今日中に上げることを使命にします。元の論争にはあまり口を挟まないつもりです。

以下、ちょちょんまげさんのツイッターからの引用(よっぱらいにつきリンク省略。以下同)

私がナイジェリアに駐在していた頃に絶望的な気分にさせられたのは、民族文化・民族宗教で内政がグチャグチャになっちゃうことなんです。無論、押し付けられた国境のなかに多民族がわけわからん内にぶちこまれて

一国にさせられたっていう歴史的な背景があるわけですけど、どーしても民族文化・民族宗教というところから出られないと、国全体を見渡せるような視点が持てないようになっちゃうんです。ご存知だとおもいますけど、ある人間が権力を持てば周囲は全員「同じ部族」で

固められちゃうわけで、そうすっと他民族には雀の涙ほどの分け前しかいかないんです。で、無論民族宗教だけが悪いとかって話じゃないし、固有の文化にローラーかけて全部直させろってことでもないんですけれど、このままそこに留まる限り

第三世界は搾取されるばっかりのように思えるのです。猫さんが例示しているようなアボリジニの社会だけで完結できる世界でもないと思うのです。特にアフリカやPNGのような超多民族、超多言語社会は。

で、宗教どうすんのってのは別の話なんですけど、あの人達宗教で殺し合っちゃうんですよ。それだけが殺し合う理由じゃないけど、大きな理由のひとつです。しかも、伝統宗教じゃなくて植民地化されたあとの押し付けられた大宗教。

個人的にゆかりの深いPNG(パプア・ニューギニア)が出てきたので口を挟まずにいられなくなりました。

アフリカとPNGでは全然状況が違うと思う。特にここ。

「あの人達宗教で殺し合っちゃうんですよ。それだけが殺し合う理由じゃないけど、大きな理由のひとつです。しかも、伝統宗教じゃなくて植民地化されたあとの押し付けられた大宗教。」

PNGについては、民族間紛争も殺し合いも珍しくないとこだけど、2000年のセンサスでは96%がクリスチャンであると自己規定しています。ちょちょんまげさんがいうところの「押し付けられた大宗教」の信者同士でやってるんだから、宗教の違いは紛争の理由の一つにすらならない。民族間紛争についてはいろいろなまなましい話を現場で聞いたけれど「宗教で殺しあっちゃう」例は少なくとも私はみたことがありません。

ただしクリスチャンといってもそれぞれ土着のアミニズムや祖先崇拝と密着していて必ずしも宣教師達が広めたものと同じではないということはあります。あとセンサスが全然あてにならないという別の問題もあります。しかしともあれ、民族間紛争の大きな理由の一つに宗教がある地域としてPNGを挙げるのは全く適切ではないと思います。

もう一つ、「ある人間が権力を持てば周囲は全員「同じ部族」で 固められちゃうわけで、そうすっと他民族には雀の涙ほどの分け前しかいかないんです。」これはナイジェリアのように首都は近代都市、地方は電気もガスもないとこみたいに貧富の差が激しいところでは大いにありうる、ちょちょんまげさんが見聞されたようなことが多々あるのだろうと思います。しかしこれもまたPNGにはさほどあてはまりません。

PNGは首都でさえ貧しい世界の最貧国の一つです。そこには一部の金持ちが分け合うべき富はありません。首都なんて日本の地方都市よりはるかに田舎です。身内で固めていい思いするほどのいい思いがないのです。取り合うべき果実がない時、「宗教で殺しあっ」ている例を私はあまり知りません。パレスチナでさえ「これは宗教の問題ではなくて土地の問題だ」とマハティール(元マレーシア首相)は言っておりました。PNGにも民族間紛争は多々あり、文字通りの魔女狩りみたいのもあり、宗教が絡むこともあると思います。魔女狩りそのものを批判することはできると思いますが殺し合いについて「宗教で」と理由づけることは少なくともPNGに関する一般論としてはできないと思います。

そしてここ。「猫さんが例示しているようなアボリジニの社会だけで完結できる世界でもないと思うのです。」

ちょちょんまげさんは「猫さん」の例示をいわゆる近代社会との接点がほとんどない完結した社会が想定されているものとしてこうおっしゃっているのだと推測します。私は猫さんじゃないのでご本人がどういう想定で例示されたのかはわかりませんが民族教育が問題になるのは当然他民族との接触を視野に入れてのことではないでしょうか。多くのマイノリティの社会がそれだけで「完結」はしていないと思います、ちょちょんまげさんがおっしゃるように。で、猫さんもそんなことは先刻ご承知なのではありませんか?むしろ、他との接触の中でマイノリティの文化を認めるならば、そこから言語はいいよ、慣習もいいよ、伝統もいいよでも宗教はだめだよ、みたいのはあり得ない、それは文化を全否定するのと同様だ、と言われているのではないでしょうか。(私は論争をちゃんと追っておりません。違ってたらごめんなさい。)

冒頭に書いたことに戻りますが、マイノリティとして劣等感を刷り込まれ、社会的にも不遇に甘んじてきた青年達は古来の言語を取り戻すことによって社会的なアイデンティティをも取り戻し、自立を模索し始めました。このことは実はマジョリティにとっても歓迎すべきことでした。非抑圧者を社会として支えていくよりも、抑圧そのものをなくしたほうがコストは下がります。実はこれは成功例のケーススタディなので、この事例を一般化はまだできません。しかし彼らが取り戻した(正しくいえば取り戻しつつある)言語には彼らの宗教も生活も文化もなにもかもが含まれています。

強引にまとめます。いわゆる「第三世界」における宗教の位置づけ、搾取のされ具合、文化と宗教の関わり、言語との関わり、抑圧している先とのかねあい、インフラの整備、貧富の差、その他その他は地域によってものすごくいろいろであると思います。ちょちょんまげさんが見聞された事例は、お話を聞かせていただいた(ブログなんかで)限りでも相当強烈で、宗教が諸悪の根源みたく考えられるのもわからないではありません。宗教が原因となって戦争や殺し合いに到ることもあることでしょう。しかしやはりこれを「第三世界」に一般化するのは違うのではないか。少なくともPNGはその例にはあてはまらないと思いますよといいたくてここまで書きました。

支離滅裂で申し訳ありません。おしまい。