羞恥プレイとしての論理学入門

全く知らないことについて知ったかぶりで偉そうなことをいうのはまだかわいいのだが、入門レベルの教科書を読んだ程度で一知半解の知識を振り回すのはなおさら恥ずかしい。今からそれをやるのだが、その前に羞恥プレイについて一言。

ただ単に恥ずかしい言説を撒き散らしている人を見て「羞恥プレイ?」という人がいるが、それは違う。個人の嗜好によって直接に肉体的な快感が成立する痛い系のプレイと違って、羞恥プレイが成り立つためには、恥ずかしいことをしている人とオブザーバーとして参加している人との間に「何が恥ずかしいか」について共通のコードがなくてはならない。早い話が赤ちゃんが人前でお母さんのおっぱいにむしゃぶりついても全く羞恥プレイにはならないが、いい大人が同じことをやれば、それは社会的に恥ずかしいことだというコードを当事者双方が受け入れるという前提のもとに羞恥プレイが成り立つ。

プレイをする側は、この恥ずかしいという認識を強く内面化していなくてはならない。それが倫理的規範を伴っていればなおよい。後で思い出しても恥ずかしくなって夜中に叫びだすぐらいの恥ずかしさでなくては、わざわざプレイをするという意味はなく、そのぐらい恥ずかしいことなんていつもやってるだろという話になってしまう。

長い前振りで何がいいたいのかといえば、私はいまから素人が知ったかぶる恥ずかしさ全開を十分認識してますということである。恥ずかしさのあまりなんだか日本語がおかしくなってきたが気にしないでもらいたい。そして全く恥ずかしいという認識なしに恥ずかしい言説を撒き散らす人と一緒にしないでねと、どちらかといえば恥ずかしいとわかってやってる分だけこっちのほうがより恥ずかしいんだからという思いもあるのである。

さて、本題に入ろう。id:kananakaさんより

バラ子教官とハラミさんの掛け合い論理学&SM講座を希望☆

というリクエストをいただいているのだがちょっとまってね。どこぞのダイエットブログで掛け合いのやり方見習ってきますので。ということで今日は、まず宿題から始めましょう。最近の話題から拾ってきました、阪大のきくち先生のツイッターからですが

「反証可能でないものは非科学」と「反証可能なものは科学」は論理的に全然違いますよね。

これね、単に「全然違いますよね」じゃなくて「論理的に全然違いますよね」とおっしゃってますね。単に全然違うのと、論理的に全然違うのはどう違うの?というのが今日の宿題です。

初日のテーマは「論理的ってなんだろう」ってことで。また明日