検診を受けて生き延びた

 肺がんで左肺上葉(左の肺の上半分と理解している)を切除する手術を受けた。その時早期発見でよかったねと喜んでくれた知人の一人が、一年後に肺がんで亡くなった。

全国民必読 長生きしたければ病院に行くな余計な検査は受けないほうがいい、病気を作るだけだから
という挑発的なタイトルの記事がある。上記の体験を踏まえて、以下にこの記事を批判する。

 生き長らえた私も命を落とした知人も、がんについてもその他どんな病気についても全く自覚症状がなかった。私はタバコも吸ったことがない。知人はスモーカーだったが咳もしていなかった。がん検診を受けた時、たまたま早期に発見されたか既に手遅れだったかが生死を分けた。

「『いつもと違うな』という感覚は、食べたり、体を動かしたりする中で気づくもの

という人がいる。知人はよく食べ、よく体を動かす人だった。いつもと何の変わりもなく食べ、動き、仕事をしていたから私は病に倒れたことさえ知らず突然の訃報を聞くことになった。治療ができる段階で自覚症状が現れる病気であれば「気づく」こともできるだろう。しかし本人がなんの兆候を感じることもないままに進行する病気、たとえば肺がん、もある。もしもを言っても詮無いことではあるが、もしも、もう少し早く検査を受けていれば助かった命であったかもしれない。

ひるがえって私自身についていえば、もしももう少し遅く検査を受けていれば助からなかった命であったかもしれない。ケロイド体質の体には生体検査によるものと本番の手術によるものの傷跡が残り今も時折痛むことがある。その痛みが思い起こさせるものは、よくぞ生き延びたという生の実感であり医療の恩恵を受けている感謝であると同時に、同じように自覚症状がないままに検査を受けた時には手遅れで逝ってしまった知人の無念である。

検査を受けるななどと無責任な放言はやめていただきたい。ほとんどの人にとって検査は「結果として異状がなかった」から「検査を受けたこと自体が無駄だったような気がする」ぐらいのものだろう。しかし、そこで異状が見つかった人にとっては生死を分けるのである。そして、今回異状なしだったあなたが次回も異状なしでいられる保証は全くない。繰り返すが、肺がんの診断を受け結果として亡くなった知人も、結果として手術を受けて生き延びて今これを書いている私も、自覚症状は全くなかったのだ。違っていたのは検査をたまたま早く受けられたか遅きに失したかだけである。

記事から引用する。

「たとえば、検査で肺に異常な影があると言われたとします。その後、細いファイバースコープを飲まされて、生検(生体組織診断。患部の一部を切り取って調べる検査)があります。こうした検査自体が苦しいし、その予後はもっとつらい。

 結果が出て再検査、また生検をして、さらに結果を待つ。働き盛りの人でも、この間、生きた心地のしない時間を過ごして凄まじいストレスを受け続けるのです。

「予後」という言葉の使い方が違うような気がするがそれはさておき、なるほど生検はつらい。検査ごときで「生きた心地のしない」というのも情けないと思うが結果を待つ時間が凄まじいストレスであることは否定しない。しかし、結果として異状があった場合となかった場合に分けて考えるなら、異状があればまさに病気そのものに直面し、人によっては死に直面し、どのような治療を受けるか、仕事や家庭はどうするかといった、検査待ちのストレスとは比較にならない局面にぶつかるのであるから、そしてそれは否応なしに腹をくくって対応するしかないのだから、今更検査のストレスがどうこういうほどの問題ではない。

そしてもしも異状がなかったならば。なるほど不安ではあっただろう、検査は痛かっただろう、生きた心地もしなかったかも知れない。でも言わせてもらうがそれがどうしたというのだ。結果として異状がなかったのなら問題ないではないか。ストレスはストレスではあるが、もしも自分が異状ありにぶちあたってしまったらどうするのか、先の人生が見えてきたならどう生きるのかじっくり考える機会ではないか。自分は病気にならない、なったらとんでもないことだという前提で生きているからもし何かあったらと思ってうろたえるのであろうが、誰だっていつかは何かあるのであって遅いか早いかだけの差でしかない。検査を受ける以上、最悪の場合を想定して心の準備をしておくことは必要なことだ。そしてそれは何も、病気に限った話ではない。人生にいくらもある「凄まじいストレス」の中で、検査結果を待つストレスだけがそれほど避けるべきこととは思えない。あえていうがこの程度のストレスでいちいち体調を壊していたら過酷な人生をどうやって生き抜いていけるというのだろう。検査を怖れる必要などないのだ。病気には治療をするだけのことだ。健康な人には見えていないだけで、治療をし続けて生きるというのも平凡な選択肢の一つにすぎない。今時身近にがん患者が全くいない人も少ないであろう。それ以外の難病に苦しむ人もいる。既に苦しんでいる人々の前で検査のストレスなど取るに足りないと私は思う。

検査と寿命の因果関係については、個別の一回限りのこの人生においてさほど大きな意味を持つとも思われないが、私には真偽が判断できない。仮に検査が寿命を延ばすことはない、むしろ検査を受けた人のほうが寿命が短いというのが本当だとしても、私は別に寿命を延ばすために検査を受けているのではない。病気があれば知っておきたいし早めに対処したい。治りたいということもあるが人生観の問題でもある。

失くした知人(友人と言ってもよいがはるかに年上のお世話になった方だった)を偲び、たまたま生を得た者の責任のようなものを感じてここまで書いた。検査と現在の医療のおかげで私は今生きている。そういう人は私だけではないしまた早くに亡くなった人も知人だけではない。