もしベトナム戦争なかりせば(1)

言語学に音韻論という分野がある。チョムスキーが若い新進気鋭の言語学者だった頃、ハーレーと共に今もこの分野の重要文献の一つとされる著作を著した*1 ことに触れて、私の師は「ベトナム戦争のためにチョムスキーは(その後)音韻論を断念せざるを得なかった」と嘆いた。チョムスキーの提唱する生成文法の理論には音韻論の分野も含まれるとはいえ、その活躍の中心は統語論である。音韻論が専門の師の嘆きが、どこまで実際にあったことかは知らないが、歴史にifはないとはいえ、もしもベトナム戦争コソボ紛争もその他その他も、チョムスキーが批判し続けなければならないような状態がなかったとしたら。言語学者としてよりも有名かも知れない社会的政治的な活動にチョムスキーが注いだ莫大なエネルギーと時間を仮に音韻論に注いでいたならば。現代の言語学の知見にはどれほど多くの成果が加えられていたことかと考えるのはあながち非現実的な空想とばかりはいえないだろう。しかし、超人チョムスキーをもってしても、一人の人間が一生涯に注げる時間とエネルギーには限りがある。

dlitさんの「メモ:サイエンスコミュニケーションと科学者/研究者/専門家に何を求めるか問題」というエントリについての私見を。

いわゆる科学者/研究者自身はこれからどれぐらいの「サイエンスコミュニケーション」を要求されるようになるのでしょうね。

 コミュニケーターも担える科学者/研究者は一部で良いと考えたとしても、その一部を育成・維持するためのリソース(お金とか労力とか)はなかなか馬鹿にできないものがあるように思います。また、そもそもその分野にそのノウハウが無い場合は、取り組みを軌道に乗せること自体にも、かなりのリソースが必要になりそうです。

社会還元あってのサイエンスである。象牙の塔に籠もって誰も読まない論文を書き十年一日のごとき講義をして終生安泰という時代ではない。研究者が自分の時間を割いてベトナム戦争原子力ニセ科学批判や社会の諸問題に取り組むことは、社会的な責任を果たすことでもあろう。しかし、それを「余儀なくされる」のは世のため人のため人類のためには、取り返しのつかない損失である、こともあり得る。研究者たるもの、自分の研究がしたいに決まっている。時間はいくらあっても足りないに決まっている。自分の研究がしたい。しかし目の前に、今自分が生きている社会で現実に起こっている問題を放置するわけにいかない。ない時間をひねり出して研究者は、コミュニケーターたろうとする。それはそれでやりがいのある、もしかしたら自分の研究より目に見えて社会に貢献できる作業ではある。わかってくれる人がいればうれしいし素人の質問に目を開かれたり励まされることさえある。しかしこの労多くして実り少ない作業は、際限もなく時間がかかり、そして自分の発言が社会的に影響力を持てば持つほどいわれのない悪意や中傷や反感や誹謗にもさらされる。研究者はある日、自ら進んでコミュニケーターたろうとしていたことを義務としてやっている自分に気づく。研究仲間に比べて物理的に持ち時間が少ない。一部の「研究者」のように、何も調べず専門外の分野に口を出し空気を読んで好き勝手なことを言えば人気者になって儲かるかも知れないがそんなことは矜持があってできない。慎重に物をいうと面白くないから飽きられる。「もっとわかりやすく!オレが納得するように説明しろ!」と読者の要求は果てしない。

いかん、研究者になりきって妄想が進んでしまった。今書いたことは私の妄想ですが、今現在サイエンスコミュニケーターなり専門家と素人との架け橋となりギャップを埋める作業をしていただいている研究者が、好きで自発的に楽しくてやっているところも勿論あるだろうけれど、特に「限りあるリソースをどう使うか」という面で苦境に立たされているのは疑いがないところではないかと思う。

長くなったので続きます。基本的には上記のdlitさんのエントリの問題提起に賛同する形で、素人の側からできることを考えたいみたいなことを考えていますが、結論はないかもしれません。私自身は非専門家です。突込みは歓迎します。(つづく)

*1:Chomsky,Noam & Morris Halle (1968) The Sound Pattern of English. New York:Harper&Row.