奨学金に成績要件は必要か

給付型奨学金創設へ 文科省、検討チーム設置(毎日新聞)についてメモ

成績要件をどうするかも課題だ。日本学生支援機構の無利子型奨学金は高校2、3年の評定平均が3・5以上を基準としている。検討チームでは「経済的支援が目的なので成績要件は設けるべきでない」とする意見もあるが、ある文科省幹部は「総額数百万円の国費を給付する以上、成績も考慮しないと国民の理解が得られないのでは」と語る。

記事にもあるとおり、現状国内で成績要件を取っ払った完全給付に国民的な合意が得られるかというと厳しいと思う。しかし世界には成績要件なんぞついていない奨学金というのは多々ある。成績要件は当たり前と思い込むのではなくて検討する価値はある。

奨学金を必要とする学生はそれだけでは生活できずバイトも必要で制約が多い場合がある。バイトはしてもしなくてもいい、適当にやればいいレベルの学生と比べて時間的にも精神的体力的にも厳しいことが多い。家庭の事情もさまざまで家事や介護、弟妹の世話などをする必要がある学生もいる。その一方学校では勉強に集中できる環境の学生と張り合ってよい成績をおさめることを求める必要があるのか。そもそも勉強にかけられる時間と環境が違う点は考慮されないのか。

しかし成績要件をつけなければ、大学に遊びにいっているような学生にも奨学金を給付するのかということになる。これは、大学に対して社会が求めるものが関係してくる。大学が世界の多くの国にあるような、山のような宿題、レポート、プレゼンその他その他で必死にやらないと卒業できないというような学問の場で、そもそも学問をしたくない人はわざわざ行きたくないような場所ではなく、社会に出る前にちょっと骨休みして形だけ出とけば「大卒」になって給料も高くなるよ的な社会的要請に沿ったものであるところからして、大学に遊びに行く背景がある訳である。

もしもたとえば、日本の会社に夏と冬に1ヶ月の休みがあれば。定時に終わるのが当然で有給もばんばんとれる社会であれば、大学は社会に出る前の夏休みというような発想が生まれるだろうか?あるいは大学を出なくても評価される点は評価され、働いてからまた学びたくなったら学校に行くということがそんなに難しくない社会であれば。

私の知る限りで給付型の奨学金は「学びたい人が経済的な理由で断念せざるを得ないことがあってはならない」という理念を第一におき、それを支える社会が学びたい人が学びたい時に学ぶことを支援するという背景があるところに存在している。成績要件を外したりしたら金だけもらって勉強しないに決まってるじゃないか、という社会では「金をやったんだからちゃんと勉強したかどうかも監視しなきゃ」にならざるを得ない。もしまた、奨学金が給付型になろうものなら、ランチの値段や趣味にどれだけ使うかチェックしてやろうと待ち構えているような人がいるところでは落ち着いて勉強できるのかどうか。

念のため、たとえば海外でお金だけもらって遊んでいる人がいないのか、楽勝で出られるディプロマミルみたいなとこはないのかといわれればご存知の通りあるに決まっている。ズルをする人が出てくることは避けられない。しかしそれよりも学びたい人が経済的な理由で妨げられることがあってはならないという理念を上に置くのである。

私もかつて成績要件は当然のことと考えていた。これだけでそう思う人を説得できるとは考えていない。しかし、当たり前ではないということだけでも再考してみる価値はあると思う。