悪い奴は差別していいの?

下記の件について

週刊朝日の橋下徹・大阪市長連載記事に関する「朝日新聞社報道と人権委員会」の見解等について(1)
週刊朝日の橋下徹・大阪市長連載記事に関する佐野眞一氏のコメント

始めに上の記事を読んでここにひっかかった。

雑誌統括は,さらに被差別部落の地区の特定その他の削除を強く求めたが訂正されなかった。

これはつまり、出す前から差別だとはっきりと指弾されている物を、問題点を認識しているにも拘らず著者と編集部の強い意向で出したと。わざとやってるわけだ。最初からわざとやってるには違いないのだが、差別という強い指摘を受けてもなお、自分のやっていることは差別ではない、この人の書くものは差別ではない、という結論ありきの考えが著者と編集部になければできないことだ。

で、下の著者のコメントを見ると

 出自にふれることが差別意識と直結することは絶対あってはならないことです。差別に苦しめられながら、懸命に生きてきた心から尊敬できる人は数多くいます。
 そのことが重々わかっていたつもりだったにもかかわらず、それら心ある人たちのひたむきな努力や痛みに思いを致せない結果となってしまいました。
 私の至らなかった最大の点は、現実に差別に苦しんでおられる方々に寄り添う深い思いと配慮を欠いたことです。

橋下氏については何書いてもいいんだけど、他の関係ない人に迷惑かけてごめんなさい。くれぐれも橋下に謝ってるんじゃないぞ。心ある人ががんばってるのはよく知ってるんだけど。と私には読めた。 引用した箇所だけでなく全体に「橋下氏には謝っていない」「自分のやり方は悪いと思っていない」「差別する気は全くないんだ、自分の意図はそこじゃない」といわんばかりのコメントに、特に失望はしていない。あの記事を書く人に私は何も期待していないので失望することはない。

しかし特に最初の記事、そして一連の問題について、ブックマークその他で「橋下氏が政治利用している」「バランスが問題」「お前がいうな」などの見解を出している人々には全く賛同できないことだけは言っておきたい。

一体あなた方は、差別かどうかを問題にする時に相手を見るのか?相手によっては差別していいのか?差別していい人といけない人がいるのか?それ自体が差別でなくてなんなの?

なんで差別を糾弾するのにほかの事とバランスを取る必要があるの?差別を相殺していいの?悪い奴は差別してもいいの?それはたとえば、犯罪者には人権を認めなくていいから厳罰に処すべきという意見とどう違うの?

差別されることがなければ、事後に利用することもできない。出身地を「集票に利用」すること自体は落下傘候補とか世襲を避けるとかを除けばほとんどの政治家がやっていることだと思うが、それが被差別部落だったのをことさらに「利用」できるとすれば、それは差別があるからである。差別は差別する方の問題であって、そこの出身者の問題ではない。

折り返し雑誌統括は「こんなことを書いていいと思っているのか。掲載できると思っているのか」と編集長と電話で激しくやり合った。

内部ではじめから指摘していた人々の無念を思う。