奨学金に成績要件は必要か
給付型奨学金創設へ 文科省、検討チーム設置(毎日新聞)についてメモ
成績要件をどうするかも課題だ。日本学生支援機構の無利子型奨学金は高校2、3年の評定平均が3・5以上を基準としている。検討チームでは「経済的支援が目的なので成績要件は設けるべきでない」とする意見もあるが、ある文科省幹部は「総額数百万円の国費を給付する以上、成績も考慮しないと国民の理解が得られないのでは」と語る。
記事にもあるとおり、現状国内で成績要件を取っ払った完全給付に国民的な合意が得られるかというと厳しいと思う。しかし世界には成績要件なんぞついていない奨学金というのは多々ある。成績要件は当たり前と思い込むのではなくて検討する価値はある。
奨学金を必要とする学生はそれだけでは生活できずバイトも必要で制約が多い場合がある。バイトはしてもしなくてもいい、適当にやればいいレベルの学生と比べて時間的にも精神的体力的にも厳しいことが多い。家庭の事情もさまざまで家事や介護、弟妹の世話などをする必要がある学生もいる。その一方学校では勉強に集中できる環境の学生と張り合ってよい成績をおさめることを求める必要があるのか。そもそも勉強にかけられる時間と環境が違う点は考慮されないのか。
しかし成績要件をつけなければ、大学に遊びにいっているような学生にも奨学金を給付するのかということになる。これは、大学に対して社会が求めるものが関係してくる。大学が世界の多くの国にあるような、山のような宿題、レポート、プレゼンその他その他で必死にやらないと卒業できないというような学問の場で、そもそも学問をしたくない人はわざわざ行きたくないような場所ではなく、社会に出る前にちょっと骨休みして形だけ出とけば「大卒」になって給料も高くなるよ的な社会的要請に沿ったものであるところからして、大学に遊びに行く背景がある訳である。
もしもたとえば、日本の会社に夏と冬に1ヶ月の休みがあれば。定時に終わるのが当然で有給もばんばんとれる社会であれば、大学は社会に出る前の夏休みというような発想が生まれるだろうか?あるいは大学を出なくても評価される点は評価され、働いてからまた学びたくなったら学校に行くということがそんなに難しくない社会であれば。
私の知る限りで給付型の奨学金は「学びたい人が経済的な理由で断念せざるを得ないことがあってはならない」という理念を第一におき、それを支える社会が学びたい人が学びたい時に学ぶことを支援するという背景があるところに存在している。成績要件を外したりしたら金だけもらって勉強しないに決まってるじゃないか、という社会では「金をやったんだからちゃんと勉強したかどうかも監視しなきゃ」にならざるを得ない。もしまた、奨学金が給付型になろうものなら、ランチの値段や趣味にどれだけ使うかチェックしてやろうと待ち構えているような人がいるところでは落ち着いて勉強できるのかどうか。
念のため、たとえば海外でお金だけもらって遊んでいる人がいないのか、楽勝で出られるディプロマミルみたいなとこはないのかといわれればご存知の通りあるに決まっている。ズルをする人が出てくることは避けられない。しかしそれよりも学びたい人が経済的な理由で妨げられることがあってはならないという理念を上に置くのである。
私もかつて成績要件は当然のことと考えていた。これだけでそう思う人を説得できるとは考えていない。しかし、当たり前ではないということだけでも再考してみる価値はあると思う。
こんな若い日もあった
気づかずにスルーしてたら太田山やないか。
【北海道で一番危険な神社】太田山神社
懐かしすぎる。2000年9月当時のホームページの日記を再録。(念のため、私のローカルにしか残ってないので検索してもないよ)
2000年9月30日
二度と行くもんかと言いながら、また山に行ってしまった。大成町の太田山。道南五霊場の一つと言われているとかで、ロープを伝い、鎖をよじ登って山の上のお堂にお参りした。「菅江真澄を読む会」という江戸時代の民俗学者の著作を読む会が江差で開かれていて、今日はその足跡をたどる行程。会員の年齢層は非常に高いのに、元気な人ばかりでえっちらおっちらとなんとかついていった。山の上からすみとおった海の底が見えるようで、真澄が見た200年前の日本海も、きっとこんなだったろうと思われた。
ロープで体重を支えていたら、手が痛い。手と肩が非常に痛い。いつも足はこんな思い物を支えているのかと思うと実にこれは驚くべきことだといえよう。
今の自分からはほとんど考えられないこと、当時の私を知っている人がいたら特定されると思いますが元気でやっています。
言語の系統は簡単には決められない
地理の問題がもはや地理じゃないと話題→いやいやこれめちゃくちゃ良問だぞ!! という話に野暮かも知れませんが言語学サイドから口出し
私なんかの出る幕では全くないのですが、たまたま今学会シーズンで言語学の先生たちは飛び回っているところだし誰も触れないで流してしまうとあれなので、最低限のフォローをしておきたいと思います。突込み歓迎。(但し私も今せっぱつまってるとこなのでお返事できるとは限りません)
一般向けの参考文献はこのあたり
- 作者: 風間喜代三
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- 作者: 吉田和彦
- 出版社/メーカー: 三省堂
- 発売日: 1996/02/01
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双方とも超スーパーウルトラ良書ですが簡単に読めるものではないので(特に後者は言語学の基礎知識は必要です)専門家じゃないけど気合入れて読んでみようという方にお勧め。しかし言語の系統をいうなら「言語学の誕生」ぐらいは読んでいないと話にならないところです。歴史比較言語学というのは非常に長い積み重ねと慎重な方法論、方法論自体の改良が重ねられてきたもので、素人の口出しをはじきかえすとんでもなく強力な壁があるので、こっちもドリルぐらいの装備が必要です。上の2冊を読むとドリルが、系統だった知識と全体の文脈を俯瞰する視野と何よりも膨大なデータを死ぬまでかかっても調べつくすぞという、のみで向こうに通じるまでトンネル掘るぞぐらいの根性が必要とされることがわかります。しかし私らはそういう先人の努力のおいしいところだけいただくことが可能なので、頭からスペイン語、イタリア語はラテン系、ポーランド語はスラブ系、オランダ語はゲルマン系と知っているわけです。それは悪いことではありません。ただ、それは先人の血のにじむような(これが決して大げさではないことは文献を読めばわかります)努力の結晶であることに対する敬意は必要だと思います。
それは決して、フランスとスペインは近いから系統同じじゃね?とかいくつかの語彙が似てるよねとかの思いつきから導けることではない。ブクマでも書きましたが言語学の知識が貧弱な私たちでもすぐわかることを指摘しておきましょう。
(1)似ている語は借用語の可能性がいつもあります。100年後に日本の子ども達が親を指す語彙がパパとママしかなくなったとしても日本語と英語は同系統ではない。パプアニューギニアには「ありがとう」が「ダンケ」であるような言語がありますが、決してドイツ語と同系ではない。概念ごと借用したのです。
そんなこと言い出したら全部の単語が比較できなくなるんじゃないかという疑問に対しては音変化や文法関係の対応を厳密に比較検討していくことで可能になるのだと、その辺りは言語学の知識がなくてもわかるように「言語学の誕生」には書かれていますので興味のある方はご覧ください。大事なことは、いくつかの単語を並べただけで語彙が似てる→系統同じと決め付けないことです。今回の問題について借用語じゃねーのと言っているのではありません。それはたまたま同系統の語が分岐してそうなったのかもしれない。方法論として「単に語彙が似ているからといって系統が同じと決め付けてはいけない」と言っています。
次に
(2)地理的に近い言語が系統が近いとは限りません。これは単純に今出ている言語地図を見てもわかることです。そもそも言語の系統樹やインド・ヨーロッパ語族という概念ができたのは、インドのサンスクリットが知られたことに端を発します。なんでこんなに遠くにこんなにヨーロッパ語にそっくりの言語がある(あった)んだよ!という驚きから言語学は誕生したといっても過言ではありません。これも結果として同系統の言語が近くに集まっていることは全く不思議ではありません。しかし地理的に近い事実の方から言語の系統を導くことはできません。
知識として言語に系統の区別があり、それが地理的な分布にもある程度反映されているということが出題されてもよいと思います。しかし言語の系統を調べることについて、その真似事を学生にやらせるのであれば、正当な方法論の基本を学ぶところからやらないとでたらめでもなんでもやり放題になってしまいます。もう周知されている知識で遊ぶのはよい、しかし方法論をもてあそんではいけない。
上の問題については「こういう知識があればこうやって解けるよ!」はいいと思います。知識の問題であれば。知識は大事ですし。しかし似てるとか語形が長いとか言い出した途端にそれは方法論の領域に踏み込んでいます。何語が何系とかいうことについても厳密な方法論について長い長い研究者たちの積み重ねた歴史があります。今も世界中で続けられている研究です。安直に近いね、似てるねでやっていけるものではない。方法論を学ぶことから始めなくてはならないと思います。
急いで書きました。足りないところや変なところがあれば突っ込んでいただければ幸いです。
縁談その後
その後ってもその前はないんですけどね。
何が一番問題ってこの件、当事者たる私の意向は一顧だにされていないところである。私らの若い頃であれば当人の与り知らないところにお見合いの話がくるなんてのはまだまだよくあることでしたが最低限の条件として「結婚相手を探している」人のところにもっていってほしいよね、縁談というのはね。ということで1ミリも結婚相手を探してなどいない私のところに縁談がやってきたのであるが、どうもこれ、私のみならず相手の意向も聞いてないんじゃないかという気がする。相手の親が息子が結婚しないので長年心を痛めていて、この際誰でもよいという訳ではないが、本人以上に切実なのは知っている。仲介者の話によると、相手の幼馴染は気が弱くて声をかけられないだろうから私の方から声をかけてやってくれないかということだった。
相手は同級生なのだが、さすがにアラフィフにもなって自分から声をかけられないならもう探すなよ。相手から声をかけてくださいとか、中高生なら知らず老境に入らんとしているいい大人が言うことではない。たぶんその人はそんなアホなリクエストをする人ではない。恐らく、仲介者が勝手に言っているのである。凄いよね、こっちは全くひとかけらも結婚相手を探していないんだよ?話をもってくるだけでもどうかと思うのにそっちから声かけろって。
うちの親もいい加減にして欲しいのだが、何がいかんって実家は汚宅なのである。しかも田舎なので旅館かよってぐらい広い家が全部。遠くない将来にわしらにのしかかってくるであろうこの家の片付けにさらに他人を巻き込むつもりか。そしてそもそも、私みたいな初期不良の欠陥品を世間に出せると思っているのだろうか。(この後にいかに私が初期不良かを列記していたのだがあまりにしゃれになっていないので削除)
先方が幻想を見ているのはわかっている。私は田舎の小学校の優等生だったから。40年ほど前、田舎的には4年前ぐらいの感覚なのだろう。実は相手は非常に素敵な人で(40年前現在)、双方の親や仲介者が全くいないところであればデートぐらいするのは全然吝かでないのだが、ひとかけらでも高齢の親たちに期待を抱かせてはいけない。触らないのが無難である。
仲介者の目に映る彼はとてもよい人なのだが気の弱いところがありよいご縁がなく今まで来てしまって『結婚できなくてかわいそう』なのである。この辺が少し周りの高齢者に聞き取り調査して見えてきた親や仲介者の理屈だった。うちの親は何も言わないが、たまに漏らすのは「年取って一人になったら寂しくないか」というようなことである。今一人で寂しくないのに年とって急に寂しくなるというのもわからないが、だいたい長年連れ添ってたって普通はどっちか先に死ぬんだし残されたほうもそのうち死ぬ。一人で生きて一人で死ねばよいではないか。
パートナーシップは特に否定しないし制度としての結婚にはなんの興味もないがアラブの石油王ぐらいお金がある人だったら結婚してもいいのだが、実は私はリア友にアラブの石油王の息子がいて京都も案内したぐらいなのだが、あれも楽じゃないらしいよ。その人は成功しているので何十人もいるきょうだい(ちなみにお母さんが10人ぐらいいる。父の妻ということでお母さん)から親戚からみんな面倒みなくちゃいけないらしい。成功者はみんなに還元しろってことで、アラブの石油資本は社会主義で回っている。なんの話だったっけ、そうだ、結婚話を望んでない人にもってくるおばちゃんの価値観はよい人なのに結婚できない『かわいそう』ということだった。
大体こんなとこを読んでいる人の8割ぐらいは『かわいそう』なので言っておきますが、特に田舎をもってる人ね、敵は手ごわいよ。だってもうじき死ぬんだもの。相手の親もうちの親も仲介者もおそらくは10年かそこらで。でも死ぬ前に安心させてやりたいとかそういう悪魔のささやきに耳を傾けてはいけない。あなたが今更結婚したところでしょせんうまくいかなくて、今までは自分の親との間だけで済んでいた抗争が相手の親きょうだいも交えてのバトルになって心配かけたまま死なせたほうがなんぼかましやった、という結果になるというかそれ以外の結果は見えないのだから。
縁談をもってくるおばちゃんに告ぐ。無駄な抵抗はやめろ。『かわいそう』と『かわいそう』をくっつけたところで出てくるものは『もっとかわいそう』である。せめて死ぬ前にこの世には本人の意向というものがあるのだと、何それ食えるのと思うかも知れないが食えませんよ、あいつらの人生もそれはそれで面白いのではないかと、信じられないかもしれないけれど思ってみてはいかがでしょうか。
ああ疲れた。もう今日は昼寝しよう。
80〜90年代にそんなベストセラーはなかった
追記
id:nofrillsさんのブクマからツイッターを拝見しまして、下記に引用するとおりツイッターの方ははっきりしたご批判と思いますのでお答えを追記しておきます。
しかし、「私は知らない」+「統計資料にない」=「なかった」は、ずいぶん乱暴だ。出版の世界には、数字に残らない「影響力」ってのがあるんだよね。新聞や雑誌のコラムをやたらと書いてたりとかいうのもあるし、出版社の編集部の中での「類書」としての存在価値が高いとかいうのもある。
言及先の記事には私は「rosechild マークス、クライン氏の本は売れたがベストセラーの「中心」とは笑止。(以下略)」とブクマしているとおり、「私は知らない」のではなくある程度売れていたことは認めています。下記に「当時を知る人がほとんど覚えていない」と書いたのが誤解を招いたのだと思いますが、これは私の身近な人に聞いてみたので、自分が聞いた数人を「当時を知る人がほとんど」と表現したのは確かに「乱暴」と言われても仕方のないところです。しかし統計資料の方は、ベストセラーは統計で判断できると考えますので、統計資料に上がっていないものをベストセラーに「なかった」と表現するのは特に乱暴とは思いませんので訂正などは致しません。そして出版業界に影響力があったことや、別のツイートでの英国好きの方の間で話題になっていたということがご指摘のとおりであるとして『80年代、90年代にそんな本がベストセラーの中心とか爆発的に売れていたような事実はなかった』という私の主張もこのままで問題ないと考えます。出版業界への影響はご指摘のご本人によるものを含め二番煎じ等がいっぱい出たことも私も存じていますが、それでもなおマークス氏やクライン氏の本が「書店の棚を席巻していた」だの「爆発的に売れていた」だのは認められないというのが私の主張です。ということで、ご指摘の事実関係には特に反論はありませんが自分の主張も問題ないと思っています。あと、マークス氏の本について(言及先が)いうならせめて「80年代」は取るべきと思っています。私の文章に乱暴なところがあるのは今後も気をつけたいと思います。
- ::::::::::::::::追記ここまで
前提になっている事実関係がめちゃくちゃな話には反論しておく必要がある。
欧米人男性と結婚した日本人女性」が、日本の若者を批判したがるのはなぜか
今の日本は、「日本人はこんなに素晴らしい」と礼賛するTV番組、本であふれているが、90年代には「日本のここがダメ!」という本が爆発的に売れていた、という話とその背景
当時を知るものにはヨタ話で片付けていいような話だが、話題になっている。私もついブクマしてしまった。
先日、当コラムで、「今の日本は、『日本人はこんなに素晴らしい』と礼賛するTV番組、本であふれているが、80〜90年代にはむしろ『日本のここがダメ!』という本が爆発的に売れていた」という話をしました。当時のベストセラーといえば、マークス寿子さんやクライン孝子さんなど、「欧米人男性と結婚した日本人女性」による“日本批判”が中心。
80年代のベストセラーといえば、一番大きいのは「窓際のトットちゃん」、あとは鈴木健二の「気配りのすすめ」、後半は村上春樹「ノルウェイの森」それから吉本ばなな、シドニィ・シェルダン、90年代ぐらいにさくらももこ辺りがぱっと思いつくところですが、この辺を見ると、ああ、「サラダ記念日」がありましたね。ノストラダムスだの宜保愛子、宗教関係、ダイエット本、タレント本なんかは手を変え品を変えいろいろ出ている。今は亡き渡辺淳一がバイブルだったオッサンもいました。このぐらい売れていればね、「爆発的に売れていた」と言ってもいいと思います。村上春樹もさくらももこも確かに爆発的に売れてましたよ。みんな覚えてる。でも当時のベストセラーがマークス寿子?クライン孝子?80年代から90年代にせめて青少年、あるいは大人だった、今40代以降の人にマークス氏やクライン氏の本を買ったことがあるかどうか聞いてみてください。めったにいないと思う、というのは実際は「爆発的に売れて」なんかいなかったから。上にリンクした以外にもベストセラーのリストはネットの上にも色々ありますが、千葉敦子、森瑤子を含めて上記のブログに言及された中でそんなリストに名前が挙がっている人は一人もいません。そもそも「当時のベストセラー」でさえない書籍がベストセラーの中心であったというような事実はありません。マークス氏とクライン氏は、いわゆる保守的なそういう論調の本を書いていた、そういうのが好きな向きには多少は売れていたであろう、その程度です。ベストセラーに明確な基準は、年などを区切ってきっちり数字を上げない限り、ないので多少なりとも売れていたなら勝手にそう呼ぶことを止めることはできませんが、常識的に考えてどんなリストにも上がってこない、当時を知る人がほとんど覚えていないような本は爆発的に売れていたとは言えません。
千葉敦子についていえば最も話題になった著作は当時も今もたぶんこれです。
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海外経験という“箔”があれば、女性が強い主張をしてもスッと受け入れられる。90年代くらいまでの日本には、そういう風潮があったのではないでしょうか。
とか、他人の業績を「海外経験という“箔”」などと十把ひとからげに論じていては批判にもならない。ちなみに上記に挙げた80年代の本物のベストセラーの中で、鈴木健二「気配りのすすめ」については千葉敦子はその著作「寄りかかっては生きられない」で厳しく批判しています。鈴木氏の著作が女性に対して男性に寄りかかって生きるような生き方を勧めるものだったからです。「そういう風潮があったから」です。森瑤子については省略する。いずれにしても、個人的にはこの四人を同列に論じるなど言語道断なのだが、それは私の感想だから措く。80年代、90年代にそんな本がベストセラーの中心とか爆発的に売れていたような事実はなかったから。それだけを指摘しておきたい。
アナウンサーに論語を読んでもらう鳥栖市のねらいとは
佐賀県鳥栖(とす)市が新教科「日本語」を始めて授業参観が盛況だったよ、というニュースである。これは日本語も世界の言語の一つとして位置づけて、ふだん当たり前のように使っている日本語にはこんな面白い仕組みがあるんだよとか、日本語と言ってもたくさんの方言があるよねというように、従来の国語教育では言及されることの少なかった日本語の側面を見てみよう、あるいは外国語としての日本語を日本語話者も勉強してみようとか、そういう話では全くなかった。
正しい朗読を通して日本語の美しさなどを学んでもらうため、NHK佐賀放送局のアナウンサーとキャスターの2人を講師として招いた。
授業内容は論語。
正しい朗読?アナウンサーの朗読は正しくて普通の人の朗読は正しくないのか?とそこら辺でとりあえずひっかかる訳だが、それにしても珍妙な気がする。なぜわざわざアナウンサーを呼んで論語?しかも論語カルタ?
鳥栖市のホームページの鳥栖市日本語教育基本計画を策定しましたというところから、その日本語教育基本計画のPDFを見てみるとこの謎が解ける。
(2)教科「日本語」の基本的な考え
教科「日本語」では、日本語を日本の文化や風土、歴史や伝統、精神、感性等を含むものであるという視点からとらえ、小中一貫教育において発達段階に応じた「言語力」や「表現力」、「コミュニケーション力」、「伝統の理解と継承」、「礼儀作法」を培わせることで、日本人としての教養を身に付け、地域や郷土、国家を愛する気持ちや国際社会における日本人としての主体性を育むことをねらいます。(強調は引用者)
ねらいます、とはっきり書いてあるよ。「日本語教育」という名で狙っているのは「日本人としての教養」「日本人としての主体性」だそうです。礼儀作法や伝統の理解と継承、国家(国ではなく国家と言っている)を愛する気持ちとか、それは昔私らの親の世代が「修身」として習っていたものではないか。コミュニケーションとか国際社会とか今風のことも書いてあるけれどもあくまでも育むのは、日本人じゃない子どもにも広く通用する教養や主体性ではなくて「日本人としての教養」「日本人としての主体性」。これを「日本語教育」という名前でやる。日本語教育ってそういうものだった?教養や主体性に話者の国籍や国民性を結びつけ、日本語って美しいね、日本人として嬉しいねとかそういうことですか?グローバルだのなんだのと言っているわりにはあまりに貧困な言語観といわざるを得ないではないか。
冒頭の「アナウンサーになぜ論語?」という疑問に戻ると、この計画のPDFをもう少し読み進めると伝統的言語文化の領域の具体的内容としてこうあるのです。
つまり、この領域では論語をやれとわざわざ指定している訳です。漢文だったら論語に限らず面白いのもいっぱいあるのに、他の漢詩とか古文とかはジャンルなのにここだけ特に「論語」と書名を指定。なんで論語なのさ。漢文を読めるようにとかじゃないよね。それなら書名を指定する必要がないもの。孔子さんは勿論中国の方ですが伝統的言語文化に都合よく編入してるのはなんなんですか。論語カルタもある訳だよ。わざわざ作ったの?
アナウンサーの日本語が「正しい」とは思わない(それは相対的に他が正しくないという誤解を招く)が、アナウンサーに講師を頼む授業があってもよいだろう。でももうちょっとアナウンサーの仕事にふさわしい物を、アナウンサーでないと語れないことをしてもらったらどうか。論語は国語の先生が読めばええやないか。論語だって必ずしも悪いとは言わない。やりようによっては論語カルタがあってもいいだろう。
しかし「日本語教育」をかくれみのにして何か別のものをねらい、別のものを育むのはやめていただきたい。言語教育は話者の属性をうんぬんしその内心に干渉するものではない。一方で、従来の国語教育の枠に収まらない日本語教育を模索するならば日本語教育の専門家に話を聞くとか、いろいろできることがあるのではないか。言語を教育しようとする人がまず言語について勉強を始めてみるとよいと思う。一生かかっても終わらないほど面白いことはいっぱいある。言語は国籍を問わず国民性を問わず世界に開かれている。言語とは、言語教育とはそういうものだと思う。
2ヶ月でふさふさ
二回りぐらい年下の若者達に混じってこん中でワシが一番アホと日々実感する生活はなかなかつらいものがあり、もがいている間に2ヶ月、あっというまに打たれ強くなってしまって発表して失笑されようがD1なのに先生にM1だと思われていようが全く動じなくなってしまった。2ヶ月で心臓に毛がふさふさ。
たまに幻想をみることがある。18の時から、大体30年前ぐらいになるが、その頃から言語学をやっていれば今頃はちゃんとした研究者になれていたのではないか。しかしはっきりわかっている。そんなことはない。18の時の私には学業を続ける力も志もなかったしもっと基本的な机に座って勉強することさえもできなかった。バブル期に学校を出て勤め始めてから、ギャンブルにはまったり同棲したり転職を重ねて、そういうもろもろを経て初めて中年になってやりたいことが見えるようになったのであり、さらにはそれさえも断念しようとしていたのに師に恵まれ出会いに恵まれて今だから始められたのである。一番アホ上等ではないか。ちょっとでも実際よりよく見せようとするから恥ずかしいのだ。幻想が欲しいのではないだろう。厳しい評価に晒されたいと切望してそのとおりになって・・・やっぱりしんどい。
という訳で、今絶賛鍛えられ中なのが他人に突っ込むスキルである。一つは発表者を教官を含む全員でボコボコにするという演習があり、自分もしばらくは立ち上がれないぐらいに満身創痍になって死ぬかと思ったけどそれを乗り越えると心臓ふさふさになっていた。だから二回り若い仲間達にも全力で突っ込む。誰も情けも容赦もなくてこれが当たり前なのだろうけど厳しいと思うのは今までがぬるい環境にいたということだろう。それから勉強会だの研究会。これがほんとに自分のバカさを繰り返し思い知らされる場なのだが、とにかく他人の突っ込みを研究する。考え方の筋道がだんだんわかってくる。
余裕のない日々、ただこのなんか書きたい欲を少しずつ発散させる場はもっておかなあかんなと思う。言語化しても何がどうなるわけでもないけれど、言語化しよう。また明日も学校に行く。